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第五章 七話 義務の不履行

 陽も暮れて、空が鉄紺色に染まりきった頃合い。

 桶の水が凍る一歩手前までに冷えてきた時分。

 そしてその水を革袋に注ごうとしていたとき。

 オートモービルで街までひとっ走りしてくれたクロードが、医者を連れて戻ってきた。


 クロードが連れてきたのは、年嵩を重ねた医者であった。

 初老と呼べる年齢を通り越し、総白髪を短く刈り上げている、そんな人。

 だが、そんな白髪を持っているのに、どうしたことか、まったく衰えを感じさせなかった。


 それはきっと、その人の腰が曲がってなくて真っ直ぐで、それどころかしゃんと胸を張った姿勢を維持していたからだろう。


 目色もぎらぎらとしており、パワフルな、といった形容がぴたりとくる医者であった。

 纏う雰囲気からして、多分、元軍医だろう。


 患者に、そしてその親しい人たちに安心感を与える、とても頼もしい人であった。

 現に俺たちもその姿を見たときに、ほっと胸をなで下ろす思いを抱いたものだ。


 さて、そんな老医師であるが、今はその姿は見えない。

 当然だ。

 今、俺が居るのは、燭台のクラシカルな光がゆらゆらと揺れる、屋敷の廊下なのだから。


 いや、はじめは俺も彼女の部屋の内に居たのだ。

 だが、アリスが苦しんでいるのに手持ち無沙汰、というのはなんとも居心地の悪い話。


 と、いうか、なにかしていないと心配で押しつぶされそうになった。

 そんなわけで――


「先生。なにか私に手伝えることはないでしょうか」


「いや。ないな。彼女を持ち上げる必要が出てきたら、頼むとしよう」


「はい。そのときは是非」


 とこんな感じのオファーを何度かしたところ、それが診察の妨げになっていたようだ。

 

「……心配なのはわかるが、診察の妨げになる。出て行ってくれたまえ」


 三回目のラブコールを送ったところで、医師に退出命令を食らってしまったのであった。


 医療のプロに邪魔になる、と言われたのだ。

 アリスのことを思えば、従わざるを得なくて、医師と比較的冷静なクロードを残して、すごすごと退出。


 でも、やっぱり彼女のことが心配で、落ち着いてられなくて。

 だから、ラウンジから椅子を持ってきて――


 かくして、この暗い廊下に居座る次第となったのである。

 そしてそんな思いを抱いたのは、なにも俺だけの話ではない。


 首を右に左に振ってみると、見知った顔がいくつもあった。

 俺と同じくラウンジから椅子を持ってきた、アンジェリカ、ヘッセニア、そしてレミィ。

 屋敷に住むすべての顔が、廊下にあった。


 廊下に声は、ない。

 音も、ない。

 沈黙が廊下に横たわっていた。


 とある音がそのしじまを破る。

 扉が開く音だ。

 屋敷の居住者が雁首揃えてたむろする、その目の前にある扉。

 アリスの部屋の扉。

 そこが開いた。

 つまり、それは診察の終了を意味していた。


 部屋から件の老医師が退出する。

 クロードを伴って。

 薄暗い上に、アリスの部屋を照らすランプによって、いささか逆光となっているため、その表情は読み取りにくい。


「先生。その……アリスは?」


 だから俺は直接問う。

 診察の結果は如何に、と。

 彼女の容態は深刻か否かを。


 問われた医師は一呼吸をおく。

 その間に部屋の扉は閉ざされて、逆光はなくなる。

 表情が読み取れるようになる。

 見る限りではあるが、深刻さは見て取ることができなかった。


「そこまで心配する必要はないかな。ただの夏風邪。きちんと休ませて栄養を摂取させれば、すぐに良くなるでしょう」


「そうですか。なら、よかった……」


 深刻な病名は出てこなかった。

 夏風邪。

 そのワードを聞いて、廊下の空気は一気に弛緩。

 誰かがついたか、それとも全員がほとんど同時に吐いたのか。

 とても大きな安堵のため息が、薄暗い廊下の空気を震わせた。


 よかった。とにかく大病でなくてよかった。


 みな、一様にそんな思いを抱いたはずだ。


 だが、安心を抱いた俺たちとまさに好対照。

 医師はなにやら、含みのある表情。

 実は、なにか気がかりな点がある。

 そう言いたげな面持ちを作っていた。


「先生。なにか?」


 医師の表情に気付いたのは俺だけであったか。

 各々好き勝手な方に向いていた視線が、俺の問いかけを合図に、再び一点に集中。

 また医師が注目を独占した。


「少し、聞きたいことがあるんだがね」


「はい。なにでしょうか?」


「この屋敷に住んでいるのは、大尉さんを除く君たちでいいのかな?」


「はい。その通りですが……」


「それに対して、使用人は彼女一人?」


「……ええ」


「なるほど、ね」


 二度、三度医師は目を伏して頷く。

 その仕草は得心いった、といった様子。


 再び年季を重ねた双眼が俺たちを捉えたときには。

 明確な非難の色をその目に灯して。

 いかめしい顔を作って。


「彼女が夏風邪にかかったのはね。様々な要因が組み合わさって倒れたのだと思うけど……その一つには間違いなく、過労があったはずだよ」


「過労、ですか」


「ああ。考えてみたまえ。この大きな屋敷で生じる雑務のほとんどを、彼女一人でこなしているのだよ? 疲れて当然だ」


 そして、老医師は追及を始める。

 俺たちが、いや、俺が彼女の働きに依存していたことを。


「二人、三人で住んでいるならば、それでもいいと思うけどね。流石に彼女を合わせて五人が住んでいるのでは、明らかにオーバーワークだ。そもそもこの規模の屋敷であれば、複数の使用人を雇うのが普通ではないのかね?」


「……ええ。仰るとおりです」


「なら、すぐに求人を出すべきだ。さきほどの君の落ち着きのなさから察するに、彼女が大事なのだろう? 彼女を思うなら、少しでも早くやるべきだ。口うるさい爺さんからの、お節介な助言だがね」


「いいえ。まったく言うとおりです。明日にでも、行動に移したいと思います」


「ああ。是非やりたまえ」


 俺の返答に満足したのか。

 老医師はいかめしい顔をほどいた。


 本当にこの医師の言うとおりであった。

 大工仕事や庭回りは俺が、ちょっとした家事仕事ならアンジェリカも手伝っている最近とはいえ、である。

 洗濯、料理、掃除、そして入浴の準備。

 そのほとんどをアリスは請け負っていたのだ。


 特に洗濯は人数が増えただけ、一層の負担となったろう。

 それでもアリスはその苦労を表に出さなかった。


 彼女の性格からすれば、苦労を隠すこと、それは十分予期できたのに。

 俺が彼女の疲れを察さなければならなかったのに。

 俺はその義務を怠った。

 気遣いができなかった。

 その結果がこれであった。


 厳粛に受け止めなければなるまい。


「先生。今日は本当にありがとうございました。診療時間を過ぎていたというのに、ここまでご足労していただいて」


 遅まきながらそのきっかけを与えてくれた医師に、謹んで謝意を伝える。

 深々と頭を下げる。


 礼を言うべきは、叱責してくれたことだけではない。

 アリスを診てくれたこと、時間外なのに駆けつけてくれたこと。

 それらへの心からの感謝をしなければなるまい。


「じゃあ、クロード。本当に悪いけれど、先生を送っていってくれないか?」


「ああ。元よりそのつもりだ。改めて頼まなくってよかったのに」


「そうか。でも、今日は本当にありがとう。おかげで助かった」


 そして感謝しなければならないのは、クロードに対してもだ。

 折角の非番、それも楽しく飲む予定だったのに、街を東奔西走してくれたのだ。

 彼が居なければ、まだアリスは診察を受けていなかったはずだ。


 レミィの金の件といい、最近彼にも頼りになりっぱなしだ。

 改めて埋め合わせはしなければ。


「気にするな。ただ、貸しはこれで二つ目だぜ。今度はお高い葉巻を買ってもらおうかね」


「それくらいで貸しが返せるなら安いものさ。好きなのを選びなよ。文句は言わないからさ」


「そいつは楽しみだ。では、先生。行きましょうか」


「うむ。もし彼女の熱が数日経っても下がらなかったら、また呼びたまえ。そのときは薬も処方しよう」


「ええ。そのときは、よろしくお願いします」


「では、お大事に」


 そう言って医師はクロードに追従して、アリスの部屋の前を後にする。


 本来であれば、玄関まで見送りをしなければならないだろう。

 それが礼儀ってやつだ。


 でも俺は――


「……ごめん。ヘッセニア」


「なに?」


「見送り、してくれないかな? 俺の代わりに」


 ちらと部屋の扉を見る。

 その内側で横になっているアリスを想う。


 失礼な人間になってしまうことは重々承知なれど。

 やはりアリスが心配でたまらなかった。


 そんな俺の内心を読み取ったのか。

 ヘッセニアはやれやれ、と言わんばかりのため息を一つついて。


「いいよ。心配なんでしょ? わかってるから、傍に居てやりなさい」


「ありがとう。恩に着るよ」


「いいの、いいの。そっちの方がアリスもいいだろうしね。さあ、こっちはお姉さんに任せて、さっさと部屋に入りなさい」

 

 そう言うや、ヘッセニアはアンジェリカとレミィを伴って、医師とクロードの後を追い始めた。


 かくして、廊下には俺一人となる。

 再びの沈黙に見舞われる。


 だが、今回はそこに長く身を置く必要はない。


 静寂を自ら破る。

 足音鳴らして扉に近付いて。

 ドアノブに手をかけて、彼女の部屋に入室。


 オイルランプの心強い光の中、アリスはベッドで横になっている。

 俺が追い出されたときと同じく、額に水が入った革袋が当てられていた。

 息はまだ心なしか荒い。

 眉間にわずかに皺。

 瞑ったまぶたもきゅっとしていて、いかにも苦しそうだ。


 ここまで彼女を追い込んでしまった罪悪感を覚えつつも、俺は彼女に近寄りそっと手を伸ばす。

 水が入った革袋に触れる。

 中に入っていたのは氷結寸前の冷水であったが、時間経過により、ずいぶんとぬるくなっていた。


 水の取り替え時だろう。

 定着魔法を施した桶の水も、すっかり凍っている。

 水ではなく、氷水でアリスを冷やしてもいい頃合いだろう。


 アリスを起こさないように、そっと袋を取り上げて。

 そして中に氷を入れる。


 表面がひんやりとするまでしばらく待ったのちに。

 再び彼女の額にゆっくりと当てる。


「ぅ……ん?」


 小さくアリスがうめいた。

 氷嚢のひんやりとした感覚が心地良いのか。

 少しだけまぶたに入った力が抜けた、ように見えた。


 アリスの体温で氷解が早まったのか。

 からり、と氷嚢内の氷の転がる音が部屋に小さく響く。

 その小さな動きの揺れが、今は下ろしている綺麗な金色の髪に伝わったか。

 はらり。一房、額から耳の上に流れた。


 それを見た俺は手を伸ばして、流れた髪を元に戻して。

 そっと彼女の髪を静かに撫でた。


「うぃりあむ……おにいちゃん……?」


 目を閉じたまま、彼女はそう言った。

 それは間違いなくうわごとであった。


「……懐かしいな」


 ウィリアムお兄ちゃん。


 そうだ。

 初めてアリスと出会ったとき、彼女は俺のことをそう呼んでいた。


 ならば、彼女は夢を見ているのだろう。

 恐らく俺とはじめて会った、あの八年前の日々のことを。


「アリスにとって。それが悪夢でなければいいけれど」


 なにしろ熱にうなされているときに見ている夢なのだ。

 彼女にとっての悪夢である可能性も否定はできない。


 俺にとってあの日々は特別であったから、彼女もそうであってほしいと願うけれど……

 それを確かめる術は、俺にはない。


「もし悪夢であったら可哀相かもなあ。だって、悪夢を作った原因が、起きたらまだ目の前に居るんだから」


 ベッドのかたわらに椅子を引き寄せながら、そう独りごちる。

 独り言の通りだ。

 今夜俺は自分の部屋には戻らない。

 

 一晩通してアリスの傍でいるつもりであった。


 その間、アリスが今見ている夢が悪夢かどうか。

 それを察せる寝言はないものか、と願ってしまうのは、あまり褒められたことではないだろう。

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