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第五章 五話 準備は終わらない

 本当にそれは、予想外の収入であった。


 クロードの借金の利子代わりに引き受けた、若兵らのための臨時講師役。

 これをこなしてみれば、フィリップス大佐から、いくらかのアルバイト代を手渡されたのだ。


 小遣い稼ぎでやったわけではない。

 だから、当初は受け取りを拒もうとした。


 が、普段は他人になにかを押しつけることをやらない大佐は、どういうわけだろうか。

 その日に限ってはとても意固地で、とても強引な勢いで、俺のポケットにそれをねじ込んできたのだ。


 頼むからこれで勘弁してくれ。


 なにを勘弁して欲しいのか、それはまったくわからなかったけれども、そんな懇願の言葉を紡ぎながら金を押しつけてきたのだ。


 理由はわからないが、その俺に金を押しつけようとするその態度は、あまりに必死なもの。

 まるで身代金の支払いか、口封じの金を握らせようとする汚職官僚を彷彿とさせるほどに。


 そんな、なりふり構わない勢いに俺は負けて、アルバイト代を受け取ってしまった次第なのである。


 とはいえ、くどいようだが俺は利益目的であの仕事を引き受けたわけではない。

 そのためなんとなく尻の収まりが悪い思いを抱いてしまった。

 その解消のために、一回だけは利子払おうと、クロードに譲渡することを試みるも、これも失敗。


「あのなあ。受け取れるわけねえだろう。お前が働いて稼いだ金なんだから、お前のために使っておけ」


 到底金を貸した側とは思えない、そんな台詞とともに、彼は受け取りを拒絶したのである。


 いや、それでは困る。

 頼むから受け取ってくれ、と大佐の真似をして押しつけようとするも、彼は自らの意思を曲げようとしなかった。


 あんまり頑固だったので、ちょっとヒートアップして、喧嘩になりかけもした。


 このままでは、お互いに収まりがつかなくなって、本当の喧嘩になってしまう。


 そんな予感がにわかにしてきた頃合い、クロードは一つの妥協を提案してきたのだ。


「じゃあ、こうしよう。あと何日かすれば無国籍亭が再オープンする。俺は初日に行く予定だが、お前らも一緒に来い。その時の全員分の支払いをだ。その金でやることにしようぜ」


 戦友の店の売り上げに貢献しようではないか。

 彼の提案したことはそんなこと。


 なるほど。

 これは非の打ち所のない良案であった。


 だから俺は、二つ返事でその妥協案を了承して。

 当日の夕方、クロードがオートモービルで屋敷に迎えに来てくれることも、あっという間に決定した。


 そして、本日がその日であった。

 無国籍亭が再オープンする当日であった。


 かくして、屋敷はギルトベルトに招待されたときのような流れとなった。

 つまり、身支度の時間が短くて済む、野郎の俺がいち早く準備が終わって。

 あのときとまったく同様に、夕方のラウンジに野郎がぽつん。

 一人佇む図が完成と相成った。


 以前と違う点を上げるのならば、窓から差す陽光の色合いが違うことだろうか。

 大陸産の色彩豊かな絨毯、中綿がぱんぱんに詰まった白革のソファ、黒檀で拵えたラウンジテーブル、そしてテーブルの上に置いた俺の私物の銀時計――


 それらの色が例外なく陽の光、すなわち黄色く染まっていた。

 この間の陽光は、今日よりずっと濃くて、オレンジ色。

 季節が真夏に近くなっていることを、否応なしに実感させられた。


「おっ? 今日は二番手じゃん、私。やればできるもんだね、私」


 耳に届く自画自賛。

 そんなおめでたいことをしているのは、前回は最後まで準備が整わなかったヘッセニアだ。


 どうやら前回の反省を活かしたらしい。

 彼女の言うとおり、たしかに手早い身支度であった。


 だがそんな改善点がある一方、前回からまったく変わらない点もあった。

 前回との共通点とはつまり。


「……また白衣、なんだな」


「おうよ。前にも言った通り、コイツが私の正装だからね」


 またしても白衣を羽織ったままで、パブに繰り出ようとしているのがそれだ。

 出来れば白衣はやめてほしいけれども、それを指摘すれば、彼女は猛烈に反発するだろう。


 現に前回は、アンジェリカの薄汚れてる、という一言にずいぶんとお冠であった。

 外出前に余計なことをして、無駄に疲れたくはない。

 だから、今回はこれ以上なにも言わないようにしたいけれど、しかし。


 一点だけ確認することがあった。


「なあ、ヘッセニア」


「なにさ、ウィリアム」


「失礼なこと聞くけど……その白衣ちゃんと洗ったやつ?」


「当然よ。本当に失礼な奴だなあ。ほれ! 疑うなら存分に確認しなよ!」


 苛立ちを隠しきれていない声が聞こえた直後、俺の視界はにわかにホワイトアウト。

 原因はわかっている。

 白衣だ。

 羽織っていた白衣、ヘッセニアはこれ脱いで、俺に投げつけてきたのだ。


 顔に当たる前に空飛ぶ白衣を引っ掴む。

 別に顔で受け止めてもいいが、なにぶんヘッセニアはズボラなやつなのだ。

 思わぬダメージを負う可能性がある分、そいつはリスキーな選択と言わざるを得ない。


 なにせ奴は日々爆薬やその原料となる薬品を扱っているのだ。

 白衣に付着していた薬品が、鼻に入って嗅覚を破壊した、なんてこともあり得る。

 折角ムウニスの絶品料理を食べに行くのに、それでは困るのだ。


 だから俺は、戦争中ヘッセニアから教わった、手で仰いでにおいを確認する方法を、存分に活用して。

 彼女の白衣の状態を確認する。


「……くさくない。陽のにおいがする。ちゃんと洗い立てのやつだ」


「だから言ったでしょう? 当然だって。私だって学習するわよ」


「ついでに白衣の下は……白のスタンドカラーに黒のパンツ。うん。素っ気ないけど、まともなやつだ。心底安心したよ」


「まともってなにさ。まるで普段の私が、まともな格好してないみたいな言い方じゃん」


「だって、事実してないだろう? まともな身なりした人はさ。下着の上に白衣着ただけの格好で、家の中をウロウロしないよ。最近、いくらなんでもだらしないよ、君」


「ちゃんと前ボタンしめてるじゃない。セーフ、セーフ。全然まともで、だらしなくない。ボタンしめてれば……ワン……ワンピ? なんだっけ?」


「ワンピース・ドレス?」


「そう、それ。それになるじゃない。代用品になるじゃない。故にセーフ。全然セーフ、真っ当、真っ当」


 最近暑いんだから、軽装になるのは当然だろう。

 ヘッセニアはきっと、今そんなことを考えているのだろう。

 実に不思議そうな顔付きで、俺を眺めてきた。


 だが不思議に思いたいのはこっちである。

 家名に誓ってもいいが、普通の人間は白衣をワンピースの代用に使おうとしない。

 まともな神経の持ち主なら、そんなこと思いつきもしないだろう。


 だから俺は思わず見てしまう。

 憐憫の視線で。

 自分がまともであると思い込んでいる、可哀相な人を。


「……なにさウィリアム。その哀れみに満ちた目は」


「いやあ。自覚がないって可哀相なことなんだなあって」


「なにさ、それ。どうでもいいけど、いい加減白衣返してよ」


 俺の手中にあった白衣を彼女はひったくる。

 そしてふくれっ面を作りながら、ヘッセニアは白衣を羽織り直した。


 やはり自分は普段からまともだと思っているからか。

 一連のやり取りに不満を抱いたようで、なにやらふくれっ面気味であった。


 だが、しかし。


「お待たせしました。今、準備が……ととの……い?」


 そんな彼女にとって都合が悪いことに。

 

「ヘ……ヘッセニアさんが……久しぶりに。ちゃんと服を着ている……?」


 いつものヘッセニアはまともな格好をしていない、と考えていたのが、俺以外にも居たらしい。


 驚愕仰天。

 心の底より驚きを抱いてしまったこと。

 それをうかがわさせる一言が、ラウンジに響いてしまった。


 声の主は、この屋敷での最年少の少女、アンジェリカだ。


 心の底から驚いているのだろう。

 目をまん丸に剥いて、ヘッセニアを見つめていた。


「おい。お嬢ちゃん(ニーニャ)。今、とってもひどいこと言ってなかった? まるでいつもの私が、ちゃんと服を着ていない、ズボラさんみたいに言ってなかった?」


「え……えっと……そんなことは思ってないですよ? うん。多分、きっと」


 大人げない二十三歳児の追及を受ける彼女の今日の格好は、なんと皮肉なことか。

 まばゆいばかりに真っ白な、それはそれは出来のいい仕立ての、袖なしのワンピースであった。


 そうだ。

 これこそが正真正銘、由緒正しいワンピース・ドレスだ。


 断じて木炭だったり、硝石で汚れたきった、とってもばっちい白衣がワンピースであるはずがない。


「多分?! きっと?! おい、こら、お嬢ちゃん! なんだその歯切れの悪い返事は?! まさか心の底では、本当に私のことを、残念な姉ちゃんと思ってるんじゃないだろうね?!」


「当然。普段の行い、それを省みてみるといい。爆薬に汚れ、爆発に腹を抱えて大笑い。誰がどう見たって、残念な人のそれだ」


 残念だけど、普段の所業を思い出してごらん。残念だから――


 そう言いたかったタイミングで、ほとんど同じことを口にしてくれたのは、いつの間にやら。

 気がつけばラウンジに降りてきていた、レミィであった。


 その突っ込みはたしかに的確ではあった。


 だが、悲しいかな。

 残念な人であるのは――


「……なあ、レミィ」


「何? ウィリアム」


「そのお召し物なんですが……いっくらなんでも、それは気合い入りすぎなんじゃないですかね?」


 突っ込んでくれたレミィも同じであった。


 そう断言したくなるしまうほどに、今日の彼女の衣服はパブという場に似つかわしくなかった。


 とても恐ろしいことに。

 今日に限って言えば、ヘッセニアの方がまだマシな格好と言わざるを得なかった。


 繊細な水色した、大胆にも肩と胸元をはだけ出したドレス。

 まるで社交場にでも行くような格好だ。


 赴くのは大衆向けの酒場であるのに。

 いくらなんでも、着飾りすぎではあるまいか?


 いまいち彼女の目的が見えてこなかった。


 そしてそれは、ヘッセニアとアンジェリカも同じなのだろう。

 二人とも口を小さく開けてぽかん。

 いかにも呆気にとられている様子であった。


「刮目。セクシーだろう?」


「……あー……うん。そういうことか」


 こなれた様子でレミィはウィンクを一発、寄越してくる。

 さりげなく身を屈めて、自然な動きで胸元を強調。

 男の劣情を誘うに値する、そんな魅惑の仕草、と言ってもいいかもしれない。


 生憎戦友、という意識が強すぎて彼女をそういった対象で見れないけれど。

 だが今の仕草で理解した。


 レミィがこんな場違いな服を引っ張り出したその理由を。


 つまりは趣味だ。

 気に入った男を見つけるために、無国籍亭に赴くつもりでいるらしい。


「そういうこと?」


「お嬢ちゃんは、わからなくてもいいことよ……そ、それよりもよ。アリス遅いね。珍しい」


「そう言われればそうだね」


 子供に聞かせるべきではない話になったこと。

 これを目ざとく感じ取ったヘッセニアは露骨に話題を変えてきた。

 俺も便乗することにした。


 黒檀のテーブルの上にあった銀時計を開く。

 クロードがやって来るはずの時間まで、もういかほどもない。


 いつもの彼女なら準備を終えているはずの時間なのに、一向に降りてくる気配はない。

 たしかに普段準備のいいアリスにしては珍しいことであった。


「私、様子。見てきます」


「ごめん。お願いアンジェリカ」


 珍しいアリスの行いに不安を覚えたのか。

 アンジェリカは俺の返答を待たずに、ラウンジを後にした。

 小走りの足音は夕暮れの廊下へと遠のいていった。


「本当は俺が行くべきなんだけど、流石に着替え中だったら悪いしなあ」


「冗談。だからこそウィリアムが行くべきだろう。脱がす手間がはぶけるし、あまつさえベッドが傍にあるんだ。むしろおあつらえ向き、じゃないのか? 押し倒してしまえよ、ウィリアム」


「……君の頭の中は、なんだってこうまで肉欲に溢れているんだ? ゲス過ぎない? いくらなんでも」


「羞恥。それほどでも」


「いやあ。ウィリアムは褒めてないと思うんだけどな……」


 多分、本気で褒められたと思って、照れているのだろう。

 あまりにずれたレミィの反応に、ヘッセニアが静かに指摘。

 突っ込みと言うほどの勢いがないところを見るに、どうやらヘッセニアは本気で呆れているらしかった。


「ウィリアムさん! 大変です!」


 そんな折である。

 アンジェリカが息を切らして戻ってきたのは。


 彼女はいかにも慌てていた。

 肩で息もしている。

 文字通り廊下をすっとんで、ここまで戻ってきたのだろう。


「どうしたの? まずは落ち着いて」


 だがしかし。

 彼女が落ち着いていられなかったことは、無理からぬことであったのである。


 何故であるならば。

 アンジェリカが冷静さを失ってしまった事態とは。


「アリスさんが倒れています! 熱……熱がっ! 体が熱くてっ!」


 俺もヘッセニアもそして、レミィも。

 少なくとも肌を粟立たせるに値する。

 そんな事態であったのだから。

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