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第五章 三話 最低のヒモに、俺はなる!

 夏の日差しを避けるために、オーニングが目一杯広げられた喫茶店のテラス席には、不思議なにおいが漂っていた。

 日光がもたらす石が熱せられるにおいと、さきほど注文したロイヤルブレンドの香りが混合されたものだ。

 悪臭とは言えないが香気とも言い難い、そんな中途半端なにおいである。


 そんな微妙なにおいってやつは、往々にして主張に欠けていて、それ故人々の記憶に残らないものである。

 嗅ぎ取ることができた俺にしたって、このにおいに気がついたのはついさっきだ。

 それも、深く息を吸い込んだときに気付いたという、たまたまとか、偶然といった枕詞が似合うシチュエーションで。


 しかし、気がつけた最大の要因は深呼吸ではない。

 一番大きかったのは、俺が間を欲していたからだろう。


 今までとある事柄に集中して取り組んでいたのだが、それがどうにも上手くいかなくて、場の空気を変えるために、一息を入れたくなったのである。


 一点に集中していた意識が弛緩し、多方面の変化に気が付くようになり――

 そして、においに気がつくことができた、というわけだ。


 さて、ある意味、夏の喫茶店の風物詩とも呼べなくもない、そんなにおいの中、俺はどんなことに集中していたのか。

 一言で言ってしまえば、それは交渉だった。


 よく磨かれたラウンドテーブルの向こう側に座っている、俺の元上司にして戦友、クロード・プリムローズ。

 仏頂面で腕を組んでらっしゃる彼を説き伏せるために、誠心誠意、俺は説得を続けていた。


 必死になって、クロードを説得しようとしている理由はなにか。

 それは――


「それで、クロード。答えを……聞きたいのだけれども……」


「駄目だ。無理だ。そんな理由じゃあ、とてもではないが頷けん」


「そこを何とかして欲しいんだ。俺が要求していることは、たしかに常識外れではあるけれども。でも、ちょっとくらいなら、いいじゃないか」


「ちょっとくらいとは言うがなあ。今のお前らの生活費、どこから捻出されていると思う? 国費だぞ国費。つまりは税金。真っ当ではない理由で、その増額を望むなんて。どこまで厚かましいんだ。事実無根の冤罪とは言え、お前、一応は罪人なんだぞ? とてもじゃねえが出せねえよ」


 とても悪く言ってしまえば、つまりは金の無心である。

 予想外の出費をすることになってしまったから、ちょっとだけ費えを増やして欲しい。

 交渉相手であるクロードのように、俺が胃を痛めながら要求したことはこれだ。


 勿論クロードの言う通り、それがとてつもなく厚かましいことは、きちんと俺も理解していた。

 だが、大恥をかいてもなお、折れるわけにはいかなかった。


「でも、全収税額から見たら俺が要求している増額分なんてさ。これは微々たるものじゃないか。大した額じゃないんだからさ、別に認めてくれたっていいじゃないか」


「微々たるものって……お前な。俺もなにも増額そのものに渋っているんじゃない。問題なのは使い道よ。血税を使うに値することならば、二つ返事で了承してたさ」


「それはごもっとも。俺もどうせロクでもないことに使われることは、十分に理解しているよ。でも、本当に増やしてもらわないと困るんだ。そうでないと――」


 次に紡ぐ言葉は真にクロードに伝えたいことだ。

 だから、一度言葉を句切って、強調せざるを得ない。

 彼の意識が俺の口元に集中したこと、それを確認してから、身を乗り出して続きを言う。


「あの屋敷が、レミィの遊び場になってしまう。夜な夜な奴の嬌声響く、淫猥な屋敷になってしまう。アンジェリカが居るのに、それはどう考えたってマズいだろう? だからさ、レミィのお小遣いというか、遊興費。この分をどうにか工面できないかな? 国費で」


「国費でか」


「そう国費で」


「血税を遊興費に変えてくれっていう、字面があんまりにもひでえなあ。おい」


 至極真っ当な突っ込み、来る。

 仰るとおりで、弁明の余地もない。


 そうだ、今の俺はそのまんまヒモだ。

 働いてもいないのに遊ぶ金の無心だけはしっかりする――

 そんな、とてもではないが真っ当とは言えない人間にまで堕ちてしまっている。


 もし目の前で誰かが、今の俺と同じことをしていたのならば、きっと俺はその人を諭すことだろう。

 もうちょっと真面目に生きようよ、と。

 そんな諭すべき所業をしている自分が、たまらなく恥ずかしい。


(だけれども)


 そんな真似をしてもでも。

 生き恥をさらしてもでも!


 アンジェリカにとって、快適な環境を維持するか否かが、かかっているのだ。

 恥に屈したら、レミィが本当に男を連れ込んでしまうのだ。


 奴は卑怯にも屋敷で遊んで欲しくなければ、小遣いをよこせと脅迫しているのだ。

 レミィの性格からいって、要求が満たされなかったら、本当に遊び始めるに違いない。


 だから俺は屈してはならないんだ!

 絶対に!

 厚顔無恥にも血税をよこせと要求し続けよう!


「血税を悦楽に消費することの方が、誰がどう考えたってマズいんだが。それについてはどう思ってんだ?」


「勿論良くないことだとは思っているよ。まるで物語の中の、悪徳貴族様みたいな行いだとも自覚している。でも、クロード。いずれはあの屋敷を孤児院のようにするんだろ? だったら、なおさらレミィの性欲処理の場にさせちゃいけない。ほら、必要経費じゃないか」


「孤児院ン?」


 素っ頓狂な声をクロードはあげる。

 そして彼の視線は俺の目からわずかに逸れる。

 視線は俺の右上に泳いで。

 三、四拍の沈黙ののち。


「あ、ああ。そうだ。こ、孤児院の真似事しているんだったな。う、うん」


 クロードは震えが認められる声で、そう言った。

 目も奇妙に泳いでいる。


 断言してもいいが。

 彼は孤児院の真似事をして社会復帰を狙う作戦のことを、すっかり忘れていたに違いない。


「……おい、クロード。あんた今、そのことをすっかり忘れていただろう? 自分で話を持ちかけてきた癖に。まったく」


「わ、忘れてないぞ。まったくもって、忘れてない。だ、だが。だが、しかしだ。もっともな理由があってもだ。不埒な使い方されるんじゃ、やっぱ出すことはできねえ」


「むー。ケチくさいなあ」


「ケチじゃねえよ。至極真っ当な反応だ」


 忘れていたこと、それを責める声で彼の罪悪感を揺さぶって、譲歩を引き出す作戦は失敗に終わった。

 多少は彼の心を動かすことには成功したけれど、クロードの生真面目な気性は、情に負けて妥協することを、しっかりと拒んだようだった。


 そのくそ真面目さに内心舌打ちをする。

 戦場では頼りになったその気性が、こういった融通が必要な場面で、裏目に出てしまうのが実に恨めしい。


 これ以上粘ったところで、国から計上される費えでレミィのお小遣いを補うことは、ほとんど不可能であろう。


 だが、諦めるのはまだはやい。

 まだ、資金源の一つを潰されただけだ。

 アテに出来る財源は、まだ存在する。


「じゃあさ。俺の恩給を使ってくれ。口座からレミィの遊興費を引いておいてくれよ。それなら問題ないだろう?」


「……お前、馬鹿だろう」


「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは。恩給なら俺の金だ。だから俺がどう使おうと、まったくもって問題はないはずだろう?」


「問題はねえが、それをすることはできねえよ。いや、むしろ国費の件よりも難しいぞ。お前の恩給を使うのは」


「なんでさ」


「口座が凍結されているから。そのこと、お前、忘れてるだろ?」


「……あ」


 そうだ、すっかり忘れていた。

 今の俺は罪人であった。

 罰の一環として、国からの軍人年金、すなわち恩給の支給を無期限に凍結されていた。


 退役してから一度も手を着けてなくて、存在を今の今まで忘れていたから、てっきり今も問題なく使えるものと勘違いしてしまっていた。


「おいおい。しっかりしてくれよ」


 俺がさきほど夏の喫茶店のにおいを嗅ぎ取ったのと同じように、今、このタイミングが一息つくのに絶好の間とみたらしい。


 呆れきった声を上げながらクロードは、にわかに組んでいた腕をほどいて、懐から葉巻を取り出した。

 次いで右人差し指先に属性魔法で火の玉を産み出し、葉巻を左手で持ったまま、じりじりと先端をあぶり始める。

 クロードが言うところの、正しい葉巻の着火方法だ。


 火はなかなか着かない。

 その間、俺らに言葉はなかった。


「……お前の言う通り、その恩給は本来お前だけのものだ。お前がお前のために使うべき金だ。それを奴の快楽のために貢ぐなんて真似はよ。俺には正しい使い方とは思えねえよ」


 ようやく葉巻から薄紫の煙が立ち上りはじめたころ、クロードはおもむろに口を開いた。

 彼は誰かが自分の恩給を、他の人に茶代として渡すことに消極的であるようだ。


 仮に俺が恩給を自由にできたとしてもだ。

 彼は恩給からレミィの小遣いを捻出することに、全力で反対するはずだ。


 先の台詞が諭すような物言いだったところを見るに、その推測は間違っていないと思う。


 つまり彼は俺のことを心配してくれているのだ。

 他人より自分を優先しろと言っているのだ。

 その気遣いはとても嬉しい。


 だが、しかし。

 そうだとしても、今回は。

 

「でも、そうしなきゃアンジェリカにとって快適で健全な環境。これが確保できなくなるんだ。もし使えるなら俺は、躊躇なく使う。間違いなく」


「それが正しくない使い方であっても、か?」


「金の使い方に正邪をつけるのであれば、他人のために使うこと。これは絶対に正しいと信じてるよ。クロードの主張を否定していて、悪いと思うけどね」


 たとえそれが今回のように、金自体が良くないことに使われようとも。

 しかし、そのことで誰かの生活がより良くなったり、いい状態を維持できるのであれば。

 自分の身銭を切ることを躊躇う理由、これがどこにあろうか。


 そうだ。

 国税に頼らずとも、最初からこうすればよかった。


 誰かのために金を使うこと。

 この行いが間違っているはずがないのだ。


 誰かの役に立てるのならば。

 それは躊躇ってはならないことだと俺は信じている。


「どうしても、か?」


「どうしても、だ」


「やれやれ。強情だなあ」


 苦笑いと紫煙を共に吐き出したのちに、クロードはそう言った。

 やれやれ、降参。

 彼は、そう言いたげに見える、両手を上げるジェスチャーをとって、そして。


「わかった。国費からも出せねえし、お前の口座も凍結したままだ。それは変えられん。だが、奴の遊興費は俺が代わりに出してやる。借金って形で手を打とう。それでいいか?」


 譲歩。

 彼は最大限の譲歩を提示してきた。

 当然、これに飛びつかない理由なんて、この世のどこにも存在しない。


 何度も頷く。

 飲む、飲む、それでいいと。

 ひたすらにそんな意思を表明し続ける。


「もちろんだよ。ありがとう。きちんと返す。利子を付けてね」


「いや、俺とお前の仲だ。利子なんていらねえよ。貸した額をそのまんま返してくれりゃ、それでいい」


「それは駄目だ。クロード。親しき仲にも礼儀あり、だ。金を借りたのならば、利子を付けて返すこと。これが礼儀だよ」


「働くことができねえのに、格好つけようとすんな。俺が構わねえっつったら、構わねえんだよ。好きなときに好きなペースで返してくれ。俺はそれで十分だ」


「でも――」


「だが、利子の代わりって言っちゃなんだがな。ちいとばかし手伝ってもらうぞ、いいな?」


 それでもなんとか利子をつけることを認めさせよう。

 そいつを説得しようと口を開くけれど、クロードが言葉をかぶせて遮ってきた。


 やってもらいたいことがある。

 そのことが利子代わりだ。

 それ以外には一切認めん。


 有無を言わさない頑固さが、彼の声にはあった。

 どうにも利子を払うことはできなさそうだ。

 そうであるならば、せめて、彼の頼まれ事を引き受けなければなるまい。

 でないと俺は礼儀知らずになってしまう。


「それはいいけれど。なにを?」


「なに簡単なことだ。皇国で言うところの、昔取った杵柄ってやつだ。訓練をしてもらいたいんだよ」


「訓練?」


「そう。訓練だ」


 誰に対して、なにを教導するのか。

 例の貴族の悪癖が発症して、クロードは肝心要となることを、なかなか言おうとしなかった。


 最近その癖を披露する場がなかったからだろうか。

 クロードはたっぷりもったいぶって、間を作って。


「度重なる事件を受けて、装備が一新されるゾクリュ守備隊。撃針銃をはじめとする最新装備の使い方。彼らにそれをレクチャーして欲しいんだ」


 そして一息に言い放つ。


 久しぶりにもったいぶる悪癖を存分に発揮できたからだろうか。

 心なしかクロードの表情は、晴れやかなようなものに見えた。

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