第四章 エピローグ 三 罰を与えるモノ
冷たく、薄暗い留置所に、唐突にやってきた一人の少女。
彼女が放った予想外の質問にアーサーは、面食らいつつも、すぐさま答えをはじきだした。
なにもこの少女に正直に話すことはない。
そう判断し、適当に煙をまくことにした。
「……それを聞いてなにをしようというのだね」
「あれ? 答えてくれないの? なんでも答えるって言ったのに」
「答えられることならば、と言っただろう。悪いが、他の話題にしてくれないか。少なくとも、君に話せることではない」
「へえ。案外慎重なんだあ。じゃ、いいや。お望み通り別の話題で。守備隊に没収された貴方の衣服や靴。看守さんはどこにしまったの?」
「おや? 君は盗人だったのかね? そんなものの所在が知りたいとは」
「別に盗む気はないよ。でも、不便じゃない? 時間すら看守さんに聞かなきゃわからないなんて。時計くらいはこっそり渡してやろう、と思ったんだけどなあ」
「……そこにテーブルがあるだろう。その傍に備え付けられている、大棚の中だよ」
どうやって邪神を群れで確保することができたのか?――
アーサーが常に浮かべる余裕顔。
それを曇らせるだけの威力を持つ発言の次は、取るに足りない質問であった。
言葉では否定しているものの、身なりから判断するに、やはり彼の私物を懐に入れることが目的なのだろう。
と、すればアーサーは本来であれば、その場所を教える義理はない。
にも関わらず突然の訪問者に、隠し場所を教えたのは何故か。
これもまた、理由は簡単であった。
「だが、知ったところで無駄さ。なにせそこには鍵が――」
その大棚には、鍵がかかっているから。
これが少女に場所を教えた理由であった。
看守がアーサーを四六時中見張っているように、アーサーもまた看守の行動を、逐次観察していた。
故に彼は知っていたのである。
大棚の施錠は当番が変わる毎にチェックされていることを。
そしてやはり今朝も、きちんとチェックされ、鍵がかけられていることを。
だから、教えても別段問題ない、と判断したのだ。
そして当然、普通であればその判断に誤りはない……はずだった。
がちゃん。
ぎい。
留置場に音が響く。
看守が業務に使うテーブルのすぐ傍。
テーブルの相方である椅子の背もたれの、すぐ後ろ。
そこにあった棚が、あっけなく開く音。
赤毛の少女が棚を開けた音。
それが、響いた。
馬鹿な。
見間違いなどしなかったはず。
なのにどうして。
アーサーは絶句した。
「へえ。流石は貴族。いい靴を履いているのね」
アーサーが呆気に取られているのを尻目に、少女は彼の私物が詰められた布袋を取り出して、がそごそ物色。
ぴかぴかに磨かれたアーサーご自慢の革靴を手に、気のない声で、少女はいい物だと評した。
その声に、アーサーは少しだけ落ち着きを取り戻す。
けれども、常のような余裕は、ない。
脳裏に疑問が渦巻いているが故に。
大棚の開き方が、あまりにも不自然であったが故に。
やはり何度記憶をさらっても、今朝、看守はあの大棚が施錠されていること。
それをしっかりと確認していたはず。
鍵が閉まっていなければならないはずだ。
と、すれば、目の前の少女はなんらかの方法を用いて、解錠したことになる。
だが、しかし。
(解錠する素振り。それを見せたか?)
道具を用いて鍵穴をほじくった様子も見せなければ、魔法を使うために意識を集中した素振りもなかった。
ただただ、当たり前のように棚に手を伸ばして、開け放った。
そうにしか見えなかったのだ。
だから少女がどのようにして鍵を開けたのか。
アーサーにはとんと想像がつかなかった。
「……今、なにをしたのかね?」
「ふうん。なるほど、なるほど」
だから彼は直接少女に問うた。
なにをしたのか、と。
シンプルに。
けれども、当の少女はアーサーの問いを聞いていなかったのか。
こくりこくりと、しきりに頷きながら、ただただ靴を眺めるのみ。
問いには一切反応しない。
普段のアーサーであれば、素晴らしい靴であろう、ちょっとした自慢をするタイミング。
だが、今の彼にそこまでの余裕はない。
苛立ちを抑えられぬ、とばかりに眉根を寄せて、青筋を立てて。
なにをした、と聞いている。
もう一度そう問い直そうとした、が――
「やっぱり、人身御供かあ。生け贄を差し出す見返りに、近くで蠢いていた連中を、呼び寄せるように願ったのね」
その言葉は、口の中で噛み砕かれるだけに終わった。
アーサーは大きく目を剥いて、またしても言葉を失った。
いや、失ったのものは言葉だけではない。
血の気もだ。
何故であるならば、その事実を知っているのは。
(この世で私だけであるはずだっ。それを知っていた同志たち。彼らは全員消したはずだっ)
そうだ、口封じは完璧だった。
爆薬を炸裂させ、人身御供の邪神と一緒に吹き飛ばしてやったのだった。
アーサーが邪神を利用、いや、取引に応じたという事実が、明るみに出てしまったのであれば。
憎むべき天敵に屈したともとれる行いが、周知になってしまったのならば。
そうなってしまえば団体の士気が下がることは必至。
だから、自分以外に事実を知る者には消えてもらったのだ。
秘密を保持するために。
一人で抱えている分には、秘密が外に漏れ出ることはないから。
そうだというのに。
何故、目の前の少女は知っているのか。
知られてしまっているのか。
彼には、その原因がわからなかった。
「うげー、えげつなー。目撃者、爆薬でみーんな殺しちゃったんだ。生け贄要求した邪神ごと、吹っ飛ばしちゃったんだ。たとえ同志だろうと、消しちゃったんだ。猜疑心が強いんだあ。余裕そうな態度を作っている割には」
アーサーからさらに血の気が消え失せる。
顔色はいまや青を通り越して、土気色。
生気に欠いたものとなる。
そこまでに彼の心胆を寒からしめた理由。
それはなにも、隠したはずの事実を発掘されているからではなかった。
彼女の口ぶりは、たった今、同志たちを爆殺したことを知った、というもの。
丁度アーサーが思念したタイミングで、その態度を露わにしたのだ。
馬鹿げたことではあるが、まさか――
(そういえば、この小娘)
彼女がこの場所で、初めて口にした台詞をアーサーは思い出す。
ウィリアムを嘲笑することを責めるような、そんな口調ではなかったろうか。
直接口で、彼を嘲ってはいなかったのに。
ただほくそ笑んでいただけなのに。
にも関わらず、どうして少女はアーサーがウィリアムを嘲笑していたことを知っていたのか。
その理由は。
考えられる理由は。
大変馬鹿馬鹿しいこと、それはアーサーも十分に承知しているけれど。
彼女は他人の心を読み取ることができるから、秘密が知られている。
アーサーにはそうとしか、思えなかった。
だからこそ、彼は恐れおののく。
たとえ魔法を使ったとしても、人の心を読むこと。
それは不可能であると知っていたからだ。
心を読むことができるとするならば。
それはもはや人外の存在、としか彼には思えなかった。
邪神と同列にすべき、驚異として捉えるほかになかった。
「な、何者だ。お前は」
「大した存在じゃないよ。私の名前はエリー・ウィリアムズ。それ以上でも、それ以下でもない。今現在においては、ね」
とうとう、恥も外面もなく、アーサーは自らの内心を表現する。
少女、エリー・ウィリアムズに向けた誰何。
その声は明確に震えを認めることができた。
アーサーはエリーに恐怖を抱いていた。
そんな彼の内心を、先の通りに読み取ったのか、否か。
それはわからないが、ともかく、彼の恐怖心を増幅させかねないような、絶妙なタイミングで。
ゆっくりと、微笑みをたたえたまま、エリーは牢へ、アーサーの方へと一歩を刻んだ。
「……来るな」
「あれ? 時計、要らないの? 折角見つけてあげたのに」
「来るなと言っている!」
ボウにくくりつけられた鎖を手に取り、まるで胡散臭い催眠術師のように、時計を揺らしながら、エリーはアーサーへと歩みより続ける。
対して、アーサーは一歩後ずさって距離を取る。
けれども、狭い牢屋の内で取れる距離はたかがしれていた。
あっという間に壁にたどり着いて。
そのあとはエリーとの距離が縮む一方となった。
とはいえ、接近することにも限度があった。
彼とエリーとの間には、鉄格子が存在していたからだ。
だからそれ以上の接近は叶わない――はずであった。
「なっ」
常識的にあり得ないことが起きた。
どうやったのかはアーサーにもわからない。
だが、しかし、鉄格子に体をぶつけて、それ以上は近づけないはずであったエリーが。
するり。
どういうわけか。
鉄格子に阻まれることなく、狭い格子の合間をすり抜けたわけでもなく、ましてや切断されてもいないのに。
はじめから障壁なんてなかったのかのように、ごく自然に、少女は牢の内側にまで侵入してきて。
あれよあれよのうちに、目と鼻の先にまでやって来てしまった。
読心能力。
そして今の壁抜け。
間違いない。
アーサーは確信した。
この少女はヒトの形をしたなにかだと。
本質は邪神に似たナニカであると。
そう確信した。
「驚くことはないよ。運が良ければ貴方にだって、壁抜けはできる。何万、何億、何兆。何度もぶつかってみれば、いつかは壁をすり抜けることができる」
「な、なにをわからぬことを! 世迷い言を!」
「嘘じゃないよ。量子力学で言うトンネル効果ってやつ。万物を構成する電子は、時に障壁をすりぬけて、壁の向こう側に達することがあるの。肉体も電子の集合体。だから電子と同じ現象をおこすことが可能ってわけ。確率は……まあ、ほとんどゼロだけど」
「りょ、量子力学? トンネル効果? 知らん。そんな学問も、そんな効果もっ! なにを……なにを言っているのだっ?!」
「ま、私はズルして、確率をいじったけれどね」
「なにを言っているのだと聞いている! 貴様! なんだ?! なにが目的なのだっ?!」
「目的は……そうねえ。貴方に罰を与えにきた、ってところかな?」
「罰、だと?」
「そう。罰。悪いことをしたら神様は罰を与えるでしょ? そういうことなんだよ」
目を伏しながら、くすくすとエリーは笑い声をあげた。
それは先のアーサー同様、嘲りに満ちていた。
言うまでもなく、嘲っている対象は、アーサーだ。
大の男が少女を恐れている。
エリーは、その事実を嗤っているようであった。
「ウィリアムとアリスはね。今は静かに暮らしてなきゃいけないの。幸福に暮らさなきゃいけないの。あの可哀相な二人はね、そうしなくちゃいけないの。それなのに……」
エリーは言葉を句切る。
口上を止めたのは、息継ぎをするためか。
いや、違った。
彼女が一旦口を閉ざしたのは――
「それを……それを貴方はぶち壊した。それどころか、彼らがゆったりと過ごせる時間、それを奪ってしまった。時間が短くなってしまった。大罪よ。私にとっては」
――凄みを作るためであった。
伏していた赤い目をアーサーに向けながらの一言。
その声は先ほどまでの幼さの残るものではない。
低く、威嚇する気にある声であった。
また好意的なものであった、少女の眼光も様変わりしていた。
怒りを隠そうともせず、じろり。
剣呑な光を湛えて睨んでいた。
それらと、さきほど彼女が生んだ一拍の間とが、がっちりとかみ合っていて。
結果年端のゆかぬ少女のものとは、思えないほどの迫力を生むに至ったのだ。
現にアーサーは圧倒された。
彼女の声に。
態度に。
目に。
肝をつぶした。
「ひゅっ」
呼吸も上手にすることができない。
吸気の度にひゅうひゅうと耳障りな音を立てる。
呼吸だけではない。
体全体が似たようなザマであった。
身じろぎ一つ出来ないほどに。
唾さえ飲み込めないほどに。
アーサーは萎縮した。
「や、やめろ」
するりとエリーの右手が動く。
武器を抜くかのような殺気を伴って。
なんとかといった体で、アーサーは嘆願の声を絞り出す。
けれど。
「いやだよ」
エリーは明確に拒絶。
嘆願を完全に無視して。
少女は右手をと伸ばす。
指も静かに伸ばす。
かくしてアーサーの額に、エリーの手指が突きつけられた。
凶器はなにも帯びていないはずなのに、どうしたことか。
さながらナイフを突きつけられているような、剣呑な殺気。
それをアーサーの第六感は、しかと捉えていた。
この娘はなにか、物騒なことをしでかすはずだ。
彼の脳裏には、そんな確信に満ちた予感が走った。
そして、その物騒なことを受けてしまったら最後。
自分はまともではいられなくなる。
そんな予感もまた、ひしひしと感じていた。
で、あれば必死になって、逃げたいはずなのに。
体がこれっぽちも言うことをきかない。
身動きすることが、できない。
「や、やめろ。なにを、する」
「安心して。死にはしないよ。夢を見てもらうだけ。本当は殺したいけれど。でも、そうするとウィリアムがきっと悲しむから。それはしない。ただ――」
「ただ? ただ……なんだっ!?」
「飛びっきりの悪夢見てもらう。罰だからキツいものじゃないと意味がないからね。精神汚染を引き起こすくらいの。しばらく正気を保てなくなるくらいにキツいやつを。自我を認識できなくなるくらいのやつを」
そして、その予感はどうにも当たっているらしい。
さらりと少女が漏らした精神汚染というワード。
正気が保てなくなるという台詞。
自我を認識できなくなるというつぶやき。
それはつまり、自分が自分でなくなってしまう、ということを宣言されたに等しいことで。
換言すれば、アーサーに精神的な死がもたらされるということでもあった。
だから、歯の根が合わぬほどの恐怖をアーサーは抱いた。
実際、がちがちと歯が鳴るまで恐怖した。
普段の彼からあまりに乖離したその姿。
それは少女の嗜虐心を満たすものであったのか。
「ふふん」
エリーはサディスティックな味に満ちた、鼻笑いを漏らしたあと。
「それじゃあ、良い夢を。大丈夫、たぶん目覚めることはできるからさ。絶対に、とは言わないけれど。二度と醒めなくなっても、私は構わないけれど」
ぺたり。
少女の指が男の額に触れた。
まるで氷水にひたしたかのように冷たい指の感触。
アーサー・ウォールデンがまともに知覚できた情報は、それが最後であった。
以降、彼は。
発狂。
自分自身を認識することができなくなった。




