第四章 エピローグ 二 陰気な場所の訪問者
そこは極めて陰気で、それでいて不快指数も高い場所であった。
日が当たらないために、常にジメジメとしていて、そのせいか常にカビのにおいが漂う、ひどく狭い部屋。
壁紙なんて洒落た代物もない。
コンクリートがむき出しとなっているために、部屋はひどく冷たい印象である。
そして、備え付けられたベッドはスプリングを欠いていて、石のように硬いときた。
今日び、労働者向けの格安宿でさえ、もう少しマシな環境を整えているだろう。
その場所で過ごす者を、快適に過ごさせる気配り。
これがまるっきり存在していなかった。
だが、それも当然だろう。
その場所は、元々罪を犯した者を、閉じ込めること目的として作られた場所なのだから。
そう。
つまりそこは、牢屋と呼ばれる場所であった。
「いやはや。この世にここまで過酷な場所があったとは、知らなかった。まだまだ私も、経験不足の青二才、であったということかな」
陰の気配に満ちた牢に叩き込まれたのならば、人間は大なり小なり気が滅入るもの。
その陰の強さたるはすさまじく、気配にあてられて、人によっては拘禁反応なる精神疾患を患うほど。
しかし、だというのに、たった今響いた男の声には憂鬱さ、これが一切見当たらなかった。
自嘲は色濃い。
けれども、余裕はたっぷりといった風情で、不安の気配は一切感じられなかった。
事実、声の主、アーサー・ウォールデンは守備隊に拘束されている現状に、まったく焦りを覚えていなかった。
硬いベッドに横たわって、鼻歌すら口ずさんでいた。
これから尋問、いや、下手を打てば拷問が待ち受けているやもしれぬのに、である。
拷問など恐るるに足らず、と心の底から思うほどに、肝っ玉が太いのか。
あるいは、拷問の可能性を考え付かないほどの愚か者なのか。
この姿を見た者は、きっとそんな二つの感想を抱くことだろう。
肝に関してはあながち間違いではないが、しかし、事実としてアーサーは愚者ではなかった。
彼がここまで落ち着いているその理由は、とてもシンプルなものであった。
アーサーは知っているのだ。
確信しているのだ。
自分は拷問をされないことを。
自らの生家が、政府に干渉してくることを。
「貴族が主役の時代は終わり、か」
アーサーが独りごちたのは、拘束されたあの日、あの地下で彼の後輩が口にした言葉であった。
たしかに戦争によって貴族という階級は疲弊した。
そして爵位も領地も持たない、大衆が力を付けてきたのも、また事実であった。
で、あれば、なるほど。
あの日のウィリアムの言葉も、見方によっては間違いではないのだな、とアーサーは思った。
「だが、しかし。さにあらず」
喉の奥でくつくつと笑う。
嘲笑だ。
アーサーはウィリアムを嘲った。
あの後輩は、もう貴族は主役ではないと言うけれど、だがしかし、現実はどうだ。
きちんと法で裁かれるべき自分、このアーサー・ウォールデンは、ノーブルな働きによって、それを回避しようとしているではないか。
それは貴族にまだ力がある証拠だ。
盛時よりも衰えたその力は、国を、法を、そして理すらねじ曲げることができる。
それくらいの力が残されているのであれば、貴族は十分に暗躍することができる。
貴族はまだまだ国政において、主役を張れる。
アーサーは心の底からそう信じていた。
「それが貴方にとって快なることなんだ。ウィリアムの発言を嘲ることが、そこまで楽しいんことなんだ。ふうん」
思いのほか深く考えてしまったためか。
良く通る、鈴の音に似た声が聞こえるまで、アーサーは留置所に来客がやって来たことに気がつかなかった。
その声は、アーサーの不意をつくようなタイミングで聞こえてきた。
しかし、あの地下で余裕を崩さなかった、その強靱な精神力の賜物か。
取り立てて驚くことはなく、ゆったりと、アーサーは優雅な所作で声のした方を見た。
「こんにちわ」
声の主は少女であった。
やや場違いな感が否めない挨拶と、こちらも場違いなくらいに友好的な笑みを浮かべていた。
歳は十三、四といったところか。
くすんだ赤毛と鮮やかな赤い目が印象的な少女であった。
身なりはあまり良いとは言えない。
襟の縫い合わせがほどけかかって、糸がびろびろ伸びているシャツに、くたくたのコート。
どうやら真っ当な身分ではないようだ。
常のアーサーであれば、身分を弁えよ、と一喝しているところ。
しかしながら、牢屋での生活というのは何分、娯楽要素が決定的に欠如していた。
「ずいぶんと珍しくて、可愛らしいお客人だ。この場所の主、ではないけれども、訪問を歓迎するよ」
だから、アーサーは少女に好意的な態度を向けることにした。
話の相手になってくれるのであれば、いい暇潰しになる。
彼女がルンペンのように見えるからといって、つっけんどんな態度で追い返す理由を、今のアーサーは持ち合わせていなかった。
「看守はどうしたのかね? ここの看守はとても生真面目で、君みたいな娘を通すとは思えないのだが」
アーサーは散々ゾクリュの街を荒らした。
おまけに、彼が放った邪神によって、数名の守備隊員が殉職しているときた。
同僚を殺されている守備隊員にとって、アーサーに対して好意的になる理由は一つもない。
暇をしている彼に同情して、この少女を、話し相手として守備隊がここに寄越したとは、到底思えなかった。
むしろ、アーサーへの嫌がらせのために、やってきた面会者を適当な理由で、そのまま帰らせるほうが自然であろう。
だからアーサーは気になったのだ。
どのような経緯でもって、ここの看守は少女を通したのかを。
「眠っているよ。今は」
だが、しかし、次第は単純なものであったらしい。
隙を見つけたから、この場所に入ることができた。
ただ、それだけであったようだ。
しかしそれにしても、勤務中に居眠りとは。
愛する国の兵士の、あまりにも情けのない実態。
アーサーは眉根を寄せて、しかめっ面を拵えざるをえなかった。
「はっ。嘆かわしいことだ。緊張感に欠けすぎているな。それもこれも、統合主義などという、ぬるま湯に浸かっていたからだ。そうは思わないかね?」
「いいえ。全然」
「同意は得られずか。悲しいよ。それはそうとお嬢さん。こんな陰気な場所になんの用かね? 君のような少女が、好んで来たいと思えないのだが」
「大した用はないよ。ただね、貴方に聞きたいことがあって」
「聞きたいこと? いいだろう、私も暇をしていたところだ。答えられることならば、なんでも答えよう」
「ありがとう。それじゃあ、遠慮なく聞くね」
鷹揚なアーサーの態度に好感を抱いたのか。
少女はにぱっと人好きのする笑顔をアーサーに贈って。
そして笑顔そのままに。
「邪神。どうやって群れで手に入れたの?」
笑顔に釣り合わぬ、鋭い質問。
アーサーにとって予想外な質問であって。
そして、それは同時に答えられぬ質問でもあった。
身なりや立ち振る舞いを見るに、彼女は軍人や諜報員でないのはたしかなようだ。
だが、だからこそ、疑問は強まる。
なぜ、こんな年端もいかぬごく普通の少女が、守備隊の尋問じみたことを聞いてくるのか。
普通に暮らしていれば、まず聞かなくても過ごせる質問なのに。
なぜ、わざわざそれを解消するために、こんな陰気な場所を尋ねてきたのか。
その理由をアーサーは推測することができなかった。




