炎と炎
既に少女はどちらも傷を負っていた。大半は掠り傷程度であるが、それでも満身創痍といって差支えがないだろう。
「――っ!」
しかも、今はややアカリの優勢に傾いていた。両者ともが魔術の力を得ているが、これまでの冒険で思った以上にアカリは体力をつけていたようだ。
攻撃の手数は多いものの、ヒナの方が息切れが早い。
「……今からでも退く気、ない?」
「そんな薄っぺらい意思でここに立ってはいません!」
「……だよね」
そんなもの、訊かずともヒナを見ればわかっていた。だが、一縷の望みをかけて訊ねてみただけだ。
――できるなら、目の前の相手をもう一度殺したくはなかったからだ。
だが、もとよりそれは叶わぬ望みだったというわけだ。
「……だったら……」
これまで乗り越えてきた戦いの経験は伊達ではない。ヒナの太刀筋を見極め、盾で受け流すと同時に追撃を加える。
利き腕と逆の左側ではあるが、それを容赦なく手首から斬り落として刀ごと地に落とさせた。
「――っぁ、あぁああああああああぁぁぁぁあっ!」
耳をつんざくような悲鳴が、周囲に轟く。血がとめどなく流れ、かつての級友は激痛に顔を歪めていた。
罪悪感の奔流が心を蝕む。だが、ここで敵を討たねば仲間も世界も失うことになる。
過去は関係ない。未来のために、今は戦う。そう自分に言い聞かせて、痛みで生じた隙を狙うよう彼女の頭上に剣を振り上げた。
「――っ!?」
しかし、とどめの一撃は空振りに終わる。
ヒナの身体が、なんの前触れもなく融解したからだ。
赤いヘドロが、リノリウムに水音を立てて広がっていく。思わず後ずさるアカリの目の前で、斬り落とした腕を呑み込んでそれは再び人の姿をなした。
「……ぽっ……、ぉぽ……」
まだ作りかけの人型の溶け崩れた顔が、眼球の備わっていないぽっかりと開いた眼窩がこちらを見据えている。
眼窩と同様歯や歯茎がないただの黒い穴と化した開きっぱなしの口が、声と呼べないただの空気が漏れる音をこぼす。
「……さ、くらい……さん」
彼女は一度死んだ身だ。それはわかっている。
わかってはいたが、見知った人間がこうして生物としての限界を容易く超えてくる有様は、事情を知っていてもなお受け入れがたい光景だった。
眼前の彼女はまだ働いていない脳が無理やり出した指令で動いているような、脚ばかりが先行して腕はまともに刀を構えていないような状態でこちらに接近してきた。
ひどく稚拙な動きだ。しかし思考をまるで挟まないが故に格段に攻撃を繰り出す速度が速くなっているし、動きに予想がつかない。
現に今も交差するような一撃を交わした後に何とか横に回り込んだが、再び腕を開く際に刃を返してこちらに向け直すという考えに至らないらしく、峰のまま刀をぶつけてきた。
あまりにも早く対応しきれず、肉こそ切れないが肋骨に強烈な一撃を叩き込まれてしまう。
「ぁがっ……、ぐっ……!」
あまりの激痛に剣を取り落とし、その場に崩れ落ちてしまう。
嫌な音がしていた。引く気配のない痛みに骨折したことを察するが、そうこうしている間に片方だけ眼球の戻ったヒナが前に立ち塞がってしまう。
「消えてェエええええっ!」
呂律の回りきらない人語を叫び散らし、怒りの形相でヒナはねじれた腕をアカリの頭に振り下ろす。
それにも一切の躊躇いがない。もはや避けられまいと思った瞬間、思い浮かぶは仲間への懺悔だ。
――ごめんね、ここで食い止めたかった。
眼前に迫る凶刃。だがしかし、不意に視界が真っ暗になった。
「――えっ、」
完全な黒ではない。仄かに混じる紫。柔軟にはためいて、それが布だと気づいて――襤褸ながらも金の刺繍が施されているローブであると気づいた瞬間、頭が真っ白になった。
「……なん、……で、死んだはず……」
『元から死んでるから出てこれんだよ』
声もあの日のままだ。間違いない。人外故の巨体、しかしローブの中は上体しかない骸骨。
――リッチ、魔物となった創路誠。
ヴァルゴに敗れ、消え去った筈の彼。
白い仮面が振り返り、その奥の赤い双眸が覗く。瞼もなく白目など存在しない剝き出しの眼球は、心なしか前に見た時よりも不気味に思えなくなっていた。
『せん、ぱ……い。叔父さん、来た……っすか』
不意に、懐から別の声が聞こえる。こちらにも覚えがある。――マサキの声だ。
「えっ、起きたの……?」
『なんとか、……死にかけた、っすけど。おかげ様で。……なんか、夢に、叔父さん、出てきて……先輩、助けなきゃ、って思ったら……』
歯切れが悪い上に要領を得ない。会話の端々で苦鳴が混じり、彼が本調子じゃないことが伝わってくる。
そんな彼をアカリ同様に見かけたのか、何やら今度は鼻にかかったような高い声に変わった。エーデルとはまた違う間の伸びた話し方は、エマのそれだ。
『はいはぁい、お電話代わりましたぁ。彼、意識を取り戻すくらいには回復しましたよぉ。ところで多分、そちらってピンチですよねぇ? だから端的に言いますとぉ~、マサキさん、何か覚醒してオバケを送り込んだみたいですねぇ。霊能力ってやつですかぁ? 怖いですけどちょっとかっこいいかもしれません~、オバケにたくさん触れる機会でもあったんでしょうかねぇ』
ふと、想起される彼との記憶。
コキアケ様の事件を発端として、マサキは怪異からの着信を受け入れ替わったノゾミと接触し、池と化した鏡に立ち合い、そして身体を焼く雨を浴びた。
霊に関係する能力を得るには、ある意味十分すぎる機会があったのかもしれない。
その上、そもそもがコキアケ様の一件以降スマートフォン自体霊からの着信や声を届けるためによく利用されていた。
イオヴェニルの力が増している今、スマートフォンでの通話それ自体がある種の霊道として機能しているのだろう。
マサキはコキアケ様からの着信を思い出し、霊である叔父を送り込む方法を思いついたのかもしれない。
『何イチャついてんだ、今どきのガキは通信費ゼロ円だからってだらだら話せて贅沢だよなぁー』
「……誠さんだってそこそこ若い頃からそういうプランがあったでしょ」
『おめー本名で呼んでんじゃねーよ!』
などという気の抜けるやり取りはあったが、すぐにアカリは創路誠――もといリッチと共に火の鳥とヒナに向き直る。
見た目の悍ましさではリッチもイオヴェニルに負けず劣らず、というか彼の方が悪趣味な造形もあり不気味に思えた。
だが、そちらからは敵意を感じない。一度は殺しあった仲なのに、不思議とアカリも彼に対してはもう警戒心を抱いていなかった。
「……あの火の鳥を倒せれば、創路君……柾君も結ちゃんも助かるはずだから」
『あ? そいつらの話はどうでもいいだろが! とにかくあのデカブツをこの世界から掃除してやろうぜ』
あくまで甥と姪の事についてはシラを切るつもりらしい。隠し切れない狼狽が声音からにじみ出ていてなんとも滑稽なことになっていたが。
しかし、その会話の応酬を皮切りにし――二人、否、一人と一匹なのだろうか――は、同じく一人と一匹に向かって駆け出していった。




