※混凝の神籬
――一歩先は、深い闇。
これまでの長旅でだいぶ底がすり減ってしまった革靴の足音が、いやによく響く。
道を通れば、赤い公衆電話に遭遇する。通り過ぎれば、受話器が落ち通話が始まる。
『小流ェ、授業中に立ち歩くなぁァー』
今しがた置き去りにした電話から聞こえたのは、ついこの間まで教壇に立っていた教師の声だった。
そこから声が聞こえるということは、彼は少なくとももう人間の姿をしていないらしい。彼の担当である数学の時間がくるたび、生徒たちから高めの声が女みたいだと揶揄されていた。今は血泡を吐く時のように掠れて、一瞬誰だかわからなかったが。
それでも判別できたのは、アカリ自身はそうしていなかったものの彼の授業では立ち歩く者が多く注意する台詞が口癖となっていたからだ。
――今が授業中だと思っているのも、名前と行動を言い当てられているのも、胃袋の底をかき回されるように気分が悪い。彼はすでに狂っているし、その上で何らかの手段を用いてこちらの行動を監視しているということだ。
「……どこかで見てるのかな、市川先生」
何しろ周囲がまともに見えないため、どこかに潜んでいるとしても全く見当がつかない。
まずは前後左右を確認した時にアデルとフィルの姿が目に入り、フェネシア城で上空から奇襲を受けたことを思い出し上を仰ぐ。だが、何もない無骨な天井が視界に入っただけだ。
ならば、とダメ押しで床を見てみる。継ぎ目のないリノリウムの床は、仮に何かが下に潜んでいたとしても容易に出てはこれないことを意味する。
――ならば、声と同時に気配を感じた気がしたのは気のせいなのだろうか。
一抹の不安を覚え、再び公衆電話を振り返る。その直後だった。
一度は通りすぎた赤い筐体が音もなく溶け崩れ、人の形を成したのは。
「――っ! フィル、下がって!」
こうなるまでは電話そのものから気配は漂っていなかったため、慌てて前に出る。だが、アカリが言うまでもなくフィルは下がっていたし、それよりも先にアデルが飛び出していた。
秒に満たない差ではあるが、これで戦況が変わる場面はいくらでもあるだろう。改めて冒険者としての場数の違いを認識させられつつ、少女も盾を構えて敵に向かっていった。
「こぉなァがれェエ、教室、げぶぶ……着セキィ!」
機械音声じみた、身に覚えのない忠告が飛ぶ。それと同時にいくつかの引き戸が勢いよく開け離れた音が、先々の暗闇から反響した。
「……市川先生、教室はここじゃないですよ……っ!」
生徒用の教室が存在するのは二階以降だ。一階にあるのは職員室や保険室、最奥の方に図書室など。だが、数年間この学校に勤務していた筈のこの教師はその基本的な構造すら忘れてしまったのか――否、もはや認識できないのか。
ボタンや受話器の残骸を埋め込んだままの赤い人間は、バカの一つ覚えのごとく、着席しろとだけ繰り返していた。
「おいアカリ、足音が増えたぞ! イチカワ以外にも敵がこっちに向かってる!」
獣の聴力を持つアデルが言うような足音を聞き取る余裕はなかったが、どうやら敵が新たに出現したらしいのは声で判断できた。
来た道の方角にある調理室からはやれ腸の処理がどうのだとか、保健室の方からは消毒だとかそれらしい――しかしながらまったくもって今の状況に合わない台詞が延々と繰り返されるのが聞こえてきていたからだ。
そのため一度は見える敵に向かいかけた足を止め、反対側に向かわざるを得なくなってしまった。
「全く敵が見えない……!」
「何が来るかわかりませんので気を付けてください……っ!」
追い越され際にフィルが祝福を施してくれる。全身が薄い光の膜に包まれたような感覚。
衝撃を吸収してくれる効果があるのだろうと認識した瞬間――早くも、それが砕け散った。
「……えっ」
剣を持つ方の腕を何かが打ち、通り過ぎていったような感覚。斜め後ろを一瞥し、そこに矢が落ちていることを確認し戦慄する。
「弓道部の……? ううん、問題はそこじゃなくてっ! 飛び道具を使う敵がいる!」
そう伝える間にも、すぐ左横を次の矢が通り過ぎていった。幸いフィルは射線から外れていたし、アデルは持ち前の敏捷性で身を逸らして危なげなく回避したようだ。
だがこちら側からは何も見えない以上次も避けられるとは限らず、暗闇の向こうから自分に向けて矢が飛び出してくる場面を想像して背筋が凍る。
「そうだ……こっち! 階段を折り返せば手すりが盾になるし、攻撃が来る範囲も限られると思う!」
宣言した後、アカリは他の二人を先導するように駆け出した。闇が深いため一切見えなかったのだが、現在地から考えて二階への階段がすぐ側にあるはずだと考え――追尾してくる光球がその入口を照らした時、その想定が正解だと知らしめてくれた。
たとえ上階から挟み撃ちをくらったとしても、今の状況よりはマシだろうと考えるより先に走る。途中でフィルの放った光槍が階下を照らすが、それで撃破した一体を除いても弓を持った者が一体、刀を持った者が三体追跡していたようだ。一瞬の閃光に照らされたケロイドの顔が割り増しでおぞましく見え、思わず総毛だった。
「上の階からは特に気配がしねぇ、先に下を片付けんぞ!」
アデルの一声に首肯し階下に向かい合った瞬間、光の届く範囲に刀持ちの三体が飛び込んできた。先程の光球で矢を持つ者の位置も把握しているため、そちらにはフィルが追撃を浴びせる。
それを横目で確認した後、這い上がってきた一体の頭蓋を叩き切る。理屈の上では階段の上にいる方が有利だと聞いたことがあるが、そもそも利き手に関係してくる螺旋階段の話であるので直線の階段では関係ないだろうし、位置取りよりも足場の悪さばかりが気になってしまう。
「っと、危ないっ……!」
現に今も一瞬段を踏み外しかけ、よろめいてしまう。だがアデルはそんなアカリとは異なり、的確に段を踏んで危なげなく連撃を繰り出しているようだ。
ほどなくして、アカリが一体を倒しきる間に彼は二体を始末し、辺りに静寂が戻った。
慣れない場所での激しい戦闘が終わり、ようやく体の力が抜ける。
「……ふぅ……。た、大変だった……。よく転ばなかったね、アデル……。」
「まあな。……で、この先はどうなってるんだろうな。今みたいに直前まで気配が察知できねぇんじゃ警戒しようもねぇぞ」
言いながら、彼と同時に上階を見遣る。これまでと同様、途方もない闇が広がっていた。
「人力で気配を察知できないなら、シオンを連れてくるべきだったかもしれないね……。あの状況じゃどうにもならなかったけど……」
言葉にしたように、今更どうにもならないことだった。
よって今できることは先程のような奇襲覚悟で進むしかないと、三人ともが判断していた。
「まあ、なるようにしかなりませんよね。もう二度目ですので、先程と同じであれば電話に気をつけるしかないのでは……」
それしかない。三人ともが同じ認識で頷きあい、階段を上っていく。
昇降口が窓に変わっているが、それ以外は一階と変わり映えのない無機質な廊下。
このまま三階にも行けるが、どこにヒナがいるかわからない以上無視する訳にもいかない。
よって、三人は二階の探索を開始する。
――一階とは全く別の問題が発生するなど、この時点では知らないまま。




