思い出の品
学校までの距離と比べれば、マサキの家からアカリの家まではさほど遠くはない。
常に肌がじりじりと日に焼けるような不快感に襲われ続けているもののアカリは無傷であり、通常の歩行ができる状態だった。
が、今は幼児を乗せたベビーカーを押しているため杖をつきながら何とか自力で歩行する後輩を意識しすぎずとも、やや遅めに歩けば歩調が合わさってくれる。
そういった意味でもやはりベビーカー係を申し出たのは正解だったらしい、と歩きながら少女は思った。
道中何度も見かける赤黒く溶け崩れた人型とすれ違っては肩を跳ねさせ、抗えない緊張に身を強張らせては結局何事もなく安堵する――そんな一連の流れを何度か繰り返した後、目的地である小流家に辿り着く。
創路家を見た直後だとやや小ぶりに見えてしまう一軒家だが、モルタルで全面を塗られた白が基調のデザインはアカリとしてはあまり武骨に見えずちょっと気に入っていた。
だが、その白も周囲が赤く染まって見える今はその影響を強く受けてしまっており、不気味な赤い家にしか見えず全く魅力を感じられない。
玄関を目指して庭に踏み入った矢先、扉と同じ正面に設置されている掃き出し窓が雑に開かれたままで放置されている事に気がついてからは、ただでさえほとんど残っていなかった帰宅願望も完全に萎えていくのを感じたところだ。
どうせ何もかも荒れているだろう、と諦観を覚えつつ件の窓から入り込もうかと考えたが、少しだけ段差があるためベビーカーの存在を思い出して途中でやめて扉の方へと身体の向きを戻す。
当初の予定通り鍵を開けて中を見渡し、特に誰も気配もしない事を確認してから扉を全開にしてから気を失ったユイと共に土足で踏み入る。
マサキも上げてから扉を施錠し、リビングに出て開きっぱなしの掃き出し窓も同様にした。
「……よし、とりあえず他はあたしが見て回ってくるから、二人はここにいて」
特に豪邸でもない普通の一軒家を三人で動きまわるのはあまりに非効率だ。
だが両親はもう窓から出てここには居ないとしても、ひょっとすると片方残っていたり開きっぱなしだった窓から赤の他人が入り込んでいる可能性もあるため休むにしても見回りをしない訳にはいかない。
よってアカリ一人がその役を申し出て、二人を荒れたリビングに待機させる。
「……とはいえ、一階は他に見るところも……」
一階はリビングが大部分の面積を占拠しているため、他に見るものは寝室として利用されている一部屋とキッチンや風呂場などの水回りと身を隠せそうなクローゼットくらいだ。
それなりに緊張し見落としのないように慎重に見て回ったが、やはり何も生物めいた気配はなくすぐに終了してしまう。
「二階行ってくるね」
部屋数が多いためこちらの方が時間がかかるだろうと思い、階段を昇る前に後輩に一声かけておく。
雨の降り続ける室内には相変わらず慣れないが、学校とマサキの家である程度は慣れてきたのかさほど見た目に騙されずに手早く昇る事ができた。
「……?」
昇り切って廊下へ視線を向けた瞬間、感じた違和感に心臓が跳ねた。
三つ並んだ扉の中央の部屋の扉だけ、色味が違って見えたからだ。
まるで赤い日の光がそこだけ当たっていないような、世界が壊れる前まで見ていた『普通』の木目を模して造られた化粧板の茶色。
本来なら安心を覚えそうな色彩だが、全てが赤く染まった中で何の前触れもなくそんなものが現れれば逆に異質さが浮き彫りになるだけだ。
「あそこって、お母さんの部屋だけど……」
本来なら手前から順に確認すべきだが、手順を変更して一番手前の父の部屋、一番奥のアカリの部屋という流れにする。
此方は一切荒れておらず、恐らく世界の変貌後は誰も訪れていないのだろう。
一応クローゼットや机の影も確認したが、やはり一階同様誰の気配もない。
こうしてすぐに、母の部屋の前に立つ。
「……お母さんがいるとか? ……」
その割に人の気配は感じられない。
何が起こるかわからないため深呼吸し、治まらない心臓の鼓動はもはや諦めてドアノブを捻る。
扉を開け放てばそこには、あまりにいつも通りの光景が広がっていた。
「……なん、……」
多少の暗さはあれど、これは例えるなら見慣れた夜の暗さ。
周囲さえ普通であれば、心を癒したであろう優しい星明かり。
理解不能の現状に言葉を失いつつも、何とか我に返って生物の気配は感じられないその部屋を見渡す。
禍々しい光の雨が降り注がない空間は照明がついておらず、では光源はどこかと注意して見てみると――程なくして、古びた木製のチェストの上に置かれたガラスの小瓶がまるで部屋を守るように白く発光している事に気が付いた。
†
「……あー、何か……この部屋にいると、肌……痛みが少し引いたような気がするっす。けど何でここだけ……」
ベビーカーからユイを出して抱え、マサキと共に二階に上がり母の部屋に辿り着く。
と同時に、そう呟くマサキの声音から心なしか苦痛が少しだけ和らいだ気がする。
「わからない……なんでお母さんの部屋……ううん、部屋、じゃないか……なんで、これが雨を防いでくれてるみたいに……」
最初に見つけた時は触れなかった、ガラスの小瓶。
しゃれたデザインのために事情を知らぬ者から見れば単なる紫の花が描かれた香水瓶か、インテリア雑貨にしか思えないだろう。
だがそれが骨壺であるという事実は、数日程前にマサキに奇しくも語ったばかりである。
「……死んだ弟が姉を守りに来た、とかなら熱い展開……なんすけどね。実際、中身とかどうなんすか」
何となく問われるかと思っていたし、アカリ自身もそうされなくとも確かめなくてはならないだろうと思ってはいた。
だが一度怪奇現象とも取れる事象に遭遇している記憶が、数瞬の躊躇を呼び起こす。
「……見てみるよ」
勿論、いつまでも躊躇っている訳にはいかない。
それに幼少期の記憶など曖昧なものだ、見間違いである可能性は大いにあるし、普通に考えればその可能性の方が遙かに大きい。
そう、自分に言い聞かせる。
言い聞かせて、決意が揺らがぬうちに棚から小瓶を取り上げて一思いにガラスの蓋を開いて中を覗き込む。
「……、…………………………………………」
脳の奥を鈍器で殴られたような衝撃と共に、無理やり引きずり出される過去の記憶。
幼き日に見たそれと同じ、小瓶に充満する底なしの闇。
だが、目を凝らせばそのずっと奥の方に――無数に散りばめられた、白い塵のような物体がいくつも見えてくる。
アカリはほぼ直感で、それが銀の星々であると思った。
そして、目を逸らせずにいる間に不思議と聴覚が冴えてきて、小瓶の向こうから聞こえる音を認識できるようになっていた。
――声だ。
それがひどく懐かしいものに思えた時、アカリは不意に――傍にいる二人を連れて、この紅く染まった世界から、この星空へ逃げてしまいたいと思った。
――瞬きをする一瞬、瞼の裏に星空が見えた気がした。




