崩れた世界
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道路には建物から這い出てきた人々――だった赤黒く溶け崩れたものが溢れかえっており、老若男女問わず絶叫する気力は尽き、呻きながら周囲をうろうろと徘徊していた。
アカリが肩を支えて歩くマサキもまた自力での歩行が困難ではあるが、正気を辛うじて保っているだけでも上等な方なのだろう。
自分たちが湿気で濡れていたので気が付かなかったが、どうやら水ではなく赤い光で出来ているらしい雨は黒い空から降り注いでおり、その空の中央は真紅の眼球を寄せ集めたような巨大な太陽が陣取っていた。
「……ユイ、……」
こんな状態では自転車すら使えず、自分よりも重量のある後輩を半ば引きずって徒歩で彼の自宅に向かうしかない。
自分の家族も気にはなったが、周囲の状況を見れば何もかもが手遅れで、今しがた後輩が呼んだ妹も含めて無事ではないだろうと容易に想像がつく。
――もっとも、なら何故アカリだけが多少の肌の痛みのみで済んでいるのか、全く説明がつかないが。
とにかく誰も彼も無事でないのならせめて、苦しんでいるであろう顔見知りの幼子に兄を早く引き合わせてあげようと思い彼の自宅まで向かっているのだった。
「……確か、ここだったよね……」
見覚えのある一軒家。
小流家よりも広めで、黒いレンガに似せたサイディングボード張りの洒落た外装が家自体のグレードもとい、両親の財力の差を感じさせられる。
だが、そんなちょっとした羨望も世界がこうなる前に抱いていただけという話だ。
何もかも変わり果てた世界では、いくら洒落ていようがこれ以上の豪邸であろうが、何もかもが家主を守れない無価値な置物にしか見えない。
「……お邪魔します」
もはや意味を成さない挨拶。
庭に踏み入って、扉に手をかける。
施錠されていればマサキの懐を漁って勝手に鍵を使おうと思っていたが、どうやら必要はなかったらしくドアノブは加えた力をそのまま受け入れて捻られ、容易く玄関への道を開いた。
家主が暴れたのだろうか、靴箱の上に置かれていたのだろう花瓶が倒れて床に陶片をまき散らしていたし、やや遠くに見えるリビングも家具が倒れ荒れ果てていた。
少々の躊躇はあったが、流石にこんな状態の室内を歩けば足を怪我する可能性が大きかったため、思い切って土足で上がる事にする。
マサキを連れたまま移動する体力がもう残っていないため、彼を階段の前の壁に凭れさせるようにして一旦置き去りにし、まずは一階をざっと確認するが――どこの部屋にも人の気配は感じられなかった。
廊下に戻り、二階への階段へ足を運ぶ。
木製の階段は完全に乾いていたが、相変わらず建造物を無視して降り注ぐ赤い光の雨のせいで濡れているような錯覚を覚えてしまい、無意識に歩みが慎重になってしまうため思うように早く動けなかった。
緊張と焦燥感ばかりが先走る中でようやく二階に上がったアカリは目に付いた部屋全てを確認していくが、最初に見えた夫婦のものと思われる広めの部屋のベッドが荒れ果て、窓が全開になっている事に気が付いた。
だが人の姿はないようで、既に正気を失って窓の外に飛び出てしまったという最悪のパターンを想像してしまい気が沈む。
それでも一応全て確認しようと思い、廊下に出て次の部屋へ向かうと――夫婦の部屋に比べればかなり綺麗に思える、勉強机やTRPGのルールブックの類がしまわれた本棚が目に付いた。
机の傍に雑に置かれた学生鞄からマサキの部屋だと判断出来るが、さらにその横に、小さな人影がこちらに背を向けて横たわっている事に気が付いた。
「……ユイちゃん……?」
慌てて駆け寄ると、まだ微かに息があるようだった。
彼女は完全に赤黒く染まった外の人間や半身以上が爛れたマサキに比べればまだ人肌が残っており、小さな腕でぐしゃぐしゃになった『マギアシグヌム』の説明書を抱きしめて縮こまった状態で意識を失っていた。
彼女の記憶を見た事があるので覚えがあるが、彼女の手の内にある紙束は叔父の家から持ってきた所持品だった筈だ。
両親も兄も居ない中たった一人で兄の部屋まで来て叔父の形見に縋りつき、顔に涙の痕を残して気を失うまで耐えていたのかと思うと胸が痛んだ。
「こんなに小さいのに、一人ぼっちでたくさん苦しんだんだ……」
まだ幼い身体を抱き上げれば、柔らかく暖かい感触がアカリの恐怖を少しだけ和らげてくれる。
そのまま一応他の部屋も見て周り、誰もいない事を確認しユイを抱いたまま下の階へ降りていった。
「両親はいなかったけど、ユイちゃんだけ創路君の部屋に倒れてたよ」
壁に凭れて座ったままのマサキに歩み寄り、膝をついて腕の中の妹を見せる。
マサキはぐったりと項垂れていたが、殆ど爛れた血肉と化した顔を上げると妹の存在を確認して安堵の溜息をついた。
「……ありがとう、ございます……。……あれ……ユイも、外の人間みたくはならないんすね……?」
気を失っているので正気の程は解らないが、完全に動く肉塊と化した他の人間や、正気こそ保っているものの殆ど外見はそれと化したマサキに比べれば比較的ユイの肌には無事な部分が多い。
それを言えばアカリが殆ど無傷でいるのが一番不思議なのだが、いずれにせよこういった差異がどういった原理で生まれているのかが全く解らない。
「何でああなる人とそうじゃない人が出るんだろう……とにかく、創路君とユイちゃんが完全に化け物にならないっていうんだったら、血筋とかも関係あるのかな……? なら、あたしの家に行って親がどうなってるかも見たいかも」
恐らくマサキの両親は、幼い娘の傍にいない時点で完全にその『化け物』になっている可能性が高い。
それ故に血筋が関係している線はさほどアテにならないとも思っているのだが、それでも今出来る事が他に思いつかないのが現状だった。
「……他にやる事もないし、情報少なすぎますもんね……」
学校を出てからも折を見てスマホの画面を眺めているが、依然として異世界を映す兆しすらない。
頼もしかった異世界の仲間達に助けを求める事も出来ないまま、この何もかもが壊された世界でどうするべきかを見つけていかなくてはならないのだ。
「けど、創路君は大丈夫なの? そろそろ移動が辛そうに見えるけど、ここに残る?」
「いや、行くっす……情けないけど、今の俺じゃユイを守れないっすし。先輩についてった方が何かわかる事があるかもしれないですし……もう、先輩のお荷物にはなりません、ので」
そう告げたマサキが立ち上がろうとし、足取りに不安を覚えたアカリが手を差し伸べようとする。
が、それを制止した彼は玄関に畳まれた状態で置かれたベビーカーへと向かい、辿り着くなりハンドルに手をかけて慣れた手つきで開いた。
「ユイちゃんを乗せていくならやっぱり危なっかしいし、ベビーカーはあたしが担当するよ。それより創路君は……例えばその傘とかを杖代わりにして歩いたらどうかな」
ユイも連れて行く時点でどう頑張ってもアカリがマサキを支えていくのは無理なので、一番彼に負担がかからなそうな方法を提案してみる。
顔面が損傷しているため表情が解りにくいが、雰囲気で申し訳なさそうにしている彼を見て逆にアカリの方が罪悪感を覚えた。
(……さすがにそんな状態になってたら、迷惑だとか負担だなんて思ったりしないよ)
内心迷惑がられていると思われたのだろうか。
恐らくはマサキに根が真面目な部分があるからだと思われるが、アカリの普段の態度が割と誰に対しても素っ気なかったため一瞬そう錯覚してしまう。
――そういえばこの世界で誰かを助けようと思ったのは、幼少期以来かもしれない。
ユイを乗せたベビーカーを押して外に出つつ、マサキを待ちながらふとそんな事を考えていた。




