雨
やはりこれだけの騒ぎを起こしておきながら、警備システムが作動する事もなければ近隣から通報される事もなかった。
学校に侵入してから一時間も経過していないが、既に何もかも異常事態である事など改めて考えなくても理解してしまっている。
「……あ、開きっぱなしだ」
再び家庭科室に乗りこむ際、マサキが閉じていた窓が開きっぱなしになっていた。
校門から追跡してきたコキアケ様もここを通ったという証なのだろうが、そういえば足が速い割に情報室への到着は遅かった気がする。
やはり音だけで判断しているので、どの窓からアカリ達が侵入したのか一瞬戸惑ったのではないだろうか。
そんな推測もそこそこに、急いで階段を目指して家庭科室を通り抜け――周囲にコキアケ様の気配がない事を確認すれば、後は一気に四階まで駆け上がるだけだ。
「さ、流石に……きつ……」
爆音の鳴り響く二階を通過した辺りから息が切れ始める。
自転車での全力走行に加え合計五階分の階段昇りと戦闘を強いられたのだ、流石に両脚が戦慄き悲鳴を上げていた。
「も、もう少しっすよ……」
男女の差があり、文化部にしては体力のあるマサキにも明らかな疲弊が見て取れる。
だがそれでも何とか四階まで登り切り、周囲の廊下に人影が無いかを手早く確認する警戒心は忘れない。
「誰もいない、かな……よし、音楽室に行こう」
二階の情報室からループ再生され続けているデュエットに掻き消され気味ではあるものの、やはり微かに校歌を奏でるピアノの音が鳴り響いている。
既に二つの異なる音楽が入り交じり不快極まりない不協和音の中ではあるが、その中でも精一杯耳を澄ませて不審な物音がないか探りつつ音楽室を目指した。
が、結局それまでに敵が躍り出てくる事も気配を感じる事もなく。
――なかった、のだが。
「な、何これ……何か床が濡れてない?」
まるで雨漏りでもしたかのように長尺シート張りの床がある位置から濡れており、音楽室に近づくにつれ明確に足音が変わるほど水量を増してきた。
水嵩が雨上がりの水たまり程度になる頃には周囲の湿気も増し、壁や天井におびただしい量の水滴が付着していた。
窓は結露し、もはや外の景色がほとんど伺えない。
「何でこんな湿度高けーんすかね……つか、湿度もそうなんすけど何か臭いが……」
マサキが不快感に顔を顰めている。
最初は気のせいかと思ったが、もはや表示板に書かれた『音楽室』の三文字が明確に読める程度に接近してからは、凄まじい黴の臭気が周囲に立ち込めていた。
水質が黒く淀み、藻類が繁茂した池を彷彿とさせるこの臭い。
そこそこの都会に分類されるだろう赤烏市付近に生活する二人の高校生には池はほぼ馴染みがない存在で、それだけで異界を連想させ足を止めそうになる。
が、実際には何とか気力で足を引きずり――ついに、音楽室の引き戸を開け放った。
――ずり、
水分を巻き込んだ摩擦音。
それと共に視界が拓ければ――先程感じた『異界』という表現がまさに、うってつけの光景が広がっていた。
配置されている物体自体は昼間のままだ。
生徒が腰掛けるための椅子が数十点、そして黒く艶のあるグランドピアノ。
それから姿勢を正す目的で使われる、奥に据え付けられた鏡。
だが部屋全体が浴室ほどの湿気に満ちており、椅子にも机にも水滴がびっしりと纏わりつく。
誰も触れていない筈のピアノは勝手に鍵盤をひとりでに沈めて校歌を演奏し続けているが――それよりも何よりも、二人の視線を釘付けにして離さない、異質極まりない物体に成り果てているのが、奥の鏡だ。
有体に言えば、それは池だった。
重力を無視し床に対して垂直に、壁にめり込むようにして存在する古池。
ただし水質は赤黒く、血肉めいて蠢くそれは水と藻の植物質な印象よりもひどく生物的に見える。
程なくしてその印象が正解だったと気づくのは、時折赤黒い顔や腕が血肉池の中から出ては、脱出を阻まれるように溶かされ再び水面に引きずり込まれるという場面を見せられてからだった。
アカリも全身が戦慄いて数秒の間放心し判断力を失っていたが、彼女よりもマサキの方が狼狽していた。
その理由は、彼の口から震える声で語られる。
「……あ、れ……気のせい、だよな……? 今、の顔……なんかオレのクラスで見た、ような……」
半分溶けた顔なのだから幾らでも見間違えようがあるだろうが、恐らくそうではないと瞬時に思えてしまう程、これまでに集めた情報があまりに状況と合致しすぎていた。
恐らく、あれは大半が鏡に引きずり込まれた一年六組の生徒達だろう。
「……創路君、これ持って周りを見張ってて。……どうすればいいのか解らないけど、あのままにしていたら犠牲者が増えるから……」
預かっていた金属バットを後輩に渡し、代わりに近場にあった椅子を持って『鏡池』に歩み寄る。
鏡を割る事が正解という保証はないが、こうしていればいずれコキアケ様に見つかるのも時間の問題だろう。
ここまで来て引き下がれないし、何もせず帰ればいずれ自分達も鏡の向こうの生徒達と同じように『溶ける』だけだ。
鏡の奥にクラスメイトがいるとすれば、これで完璧に彼らを殺してしまう事になるのかもしれないが――それなら猶更、多く時間を共有しただろうマサキに鏡を割る役を任せるのは酷というものだ。
接近する度に強くなる噎せ返るような藻の臭気に気をやられそうになるのを必死にこらえ、思い切り椅子を振り上げる。
その瞬間、眼前に見覚えのある顔を見た気がした。
「……据石さん」
部活の度に顔を合わせていたのだ、見間違えようもない。
普段こそ口数が多い方ではなかったが、TRPGともなればキャラクターらしい的確なロールプレイで周囲を楽しませ、いくつものシナリオをドラマチックな展開に導いてくれた。
アカリも自らがGMを務めた際、彼女に楽しませて貰った事は多い。
直接自らをさらけ出すのは苦手な方でも、本当は心に熱いものを持っていたのだと思う。
もう少し彼女が成長すれば、生きていればいずれマサキに自力で想いを告げられる時が訪れたのかもしれない。
だが、彼女はもう――
「……じゃあね、据石さん」
鏡の中の、肌が赤黒く変色し顔面以外が溶け崩れたノゾミは何も語らない。
それでも、後輩が――想い人に今の姿を見られる前に、粉々に打ち砕いて欲しいと言ってるような気がしたのだ。
だから一人で頷いて、椅子を思い切り振り降ろす。
反動は、普通の鏡と変わらなかったと思う。
水面のように揺らいでいた鏡面が、衝撃を受けた瞬間にガラスである事を思い出したように一瞬で平坦になり、罅割れる。
――鏡の内外から轟く、地響きを伴う断末魔。
マサキの悲鳴によりコキアケ様が四階に昇ってきた事に気がついて振り向くが、彼は怯えた目でかぶりを振っている。
「か、階段昇ってこっち来たけど……と、途中で、破裂した……っす」
恐らく他の個体も倒せただろう、と安堵してその場にへたり込みかけるが、鏡から大量の血液じみた池水が流れ出て床を汚している事を思い出して踏みとどまった。
「……終わった、のかな……やった……これで安心だね、創路く――」
――唐突に、言葉を遮った雨音。
天気予報など確認している余裕など無かったが、深夜に雨が降ると言われていたのだろうか。
一仕事終えた後なのに髪や制服が濡れてしまい、今更ながらに明日――日付的には今日の登校をどう乗り切るかという考えが沸いてくる。
だが、瞬時にそんな平和な思考は吹き飛んだ。
何故室内なのに雨が降り込んでいる?
何故雨が赤い?
何故血の匂いがする?
何故赤い雨を浴びた肌に疼痛が走る?
現状の異質さに気づいた時、今度は校舎内からではなく――街全体から、否、もしかすると世界全体から苦悶に満ち満ちた長い長い絶叫が轟いた。
「……あ、……えっ、何……?」
窓の外を見遣っても、室内と同じく赤い雨が降り注いでいるだけだ。状況が呑み込めず、ただ呆然とするしかない。
だが、その絶叫が背後からも聞こえていると気づけば我に返って勢いよくそちらを振り返った。
「――創路君……? 創路君っ!」
悲鳴まじりに名を叫び、後輩の元に駆け寄るも――彼は肌のあちこちが赤黒く溶かされ、痛みと苦痛に絶叫しのたうち回っており返事どころではない様子だった。
「――ぁ、っがぁあああああああああぁぁぁあっ! ぁ、っぎぁぁあーーーっ!」
雨粒が肌に着地する度にその周囲が溶けてただれ、皮膚を突き破って肉質を変容させていく。
どうしようもない痛みから逃れようと身を捩るも、本来であれば雨を防いでくれる筈の建物自体がまるで役に立っていないので、どこへ逃げようと完全に無意味である。
「なに、よ……これ……なんなの……」
校舎の内外から聞こえる、心を削るような悲鳴。
ただ、どうする事も出来ずに立ち尽くすしかなかった。




