夜の学校
「……やっぱり、繋がらない」
夜、自宅で暗いスマートフォンの画面を見下ろすアカリは相当、異世界にでも逃げたいと思っている事だろう。
その自覚は大いにあるが、それでも例の図書館が以前のように画面に映る事はなかった。
なんとなく解っていた事である。
昨日も同じだったから。
元々曖昧すぎる基準で接続されていた世界だったから、繋がらなくなったところで無理はないと思える。
だが、不安がないとは言えない。
正直に言えばあの見慣れた悪魔から助言が欲しかったし、コキアケ様から追われていても異世界に逃げれば何とかなるかもしれないと考えていたからだ。
その微かな希望が、昨日の時点で潰えていた訳だ。
「……きっと、この一件をどうにかすれば何とかなる」
そう信じなければやっていられない、とも言う。
時計を見れば夜の十一時を過ぎたところで、今日は運よく両親とも早めに寝てくれた様子だ。
『創路君はどう? 皆寝た?』
『うちはユイのお世話でクッタクタなのでパパ太郎もママ子もぐっすりっす、準備万端っすよ』
『じゃあお互いこれから学校の正門を目指す訳だね』
手短な会話をメッセージアプリで交わした後、パジャマを脱いでその下に着ていたブラウスとタイツ姿にいつものブレザーとスカートを着用する。
私服は何点か所持しているのだが、動きやすそうに見えてジーンズ素材が固く関節が曲がりにくかったり、生地が薄く万が一の際に耐久性が不安だったりして結局制服を選ぶに至った。
ただし、腰に巻かれたウエストポーチだけは私服の中から選び出したものだ。
家の鍵だけはどうしても閉めてから外出したかったので、ここに自宅及び自転車の鍵とスマートフォンを入れる事により両手を開けるために着用した。
中学時代の遠足で使用した品なのでデザインが少し幼く恥ずかしいが、この際贅沢は言っていられない。
武器の類についても考えたが、取り回しのきく武器など一般家庭には包丁くらいしかなく、誰かに見つかればそれこそ終わりであるし、もし戦いになってもこんなリーチの短い得物でどうにかなる相手だとは思えない。
よって、鍵以外の荷物は持たずに家を出る。
足音を立てないように自室を出て、階段を降り玄関を目指す。
アカリが生まれる前に新築したらしい築二十年弱の木造住宅の床はまだまだ現役であり目に見えた老朽化もない筈なのだが――何故か、暗闇では築年数以上に古びて見えたし、ともすれば踏み抜くのではないかという、普段生活している上では全く感じる事の無い心配を覚えたりした。
いずれも荒唐無稽で考えるだけばかばかしい話なのだが、一瞬でもそう錯覚してしまう程に今の状況を不安に思っている証左だろう。
普段使わない靴を出せば両親に訝しまれるだろうと思ったので、靴の選択肢は玄関に唯一出しっぱなしにしてある通学用の革靴しかない。
それを履いて扉を開けば、据石のマンションでも感じた不気味な冷気が露出した顔や手から容赦なく体温を奪い去っていく。
だが怯んでいる暇もなく玄関の扉をそっと閉じて施錠し、そのまま踵を返した。
「慎重に、と……」
自宅の敷地内で私物である自転車を持ち出しているだけなのに、泥棒にでもなったような後ろめたい気分になる。
一階の寝室で眠っている両親に感づかれないように片手で発条の部分を押さえて音を出さないように工夫しつつ、はやる気持ちを押さえて忍び足で自転車を道路に出す。
乗った時点で一度家の方を振り返るが、両親の部屋に明かりがついた形跡も中で人が動く気配も感じられない。
無事に抜け出せたことに安堵しつつ、道路に向き直れば先程までとは打って変わって猛スピードで自転車を漕ぎ出した。
今も恐らくどこかに立っているのだろうコキアケ様の存在が最も恐怖だが、それ以外にも警察や知りあいに捕まれば一発で計画が瓦解するリスクがある。
だからなるべく早く目的地に辿りついてしまおうと、普段通学するよりも幾分強くペダルを漕ぎ続ける。
夜道を歩いた経験は数える程しかないが、その中では今が最も年齢を重ねて成長している筈なのに、一番恐ろしく不気味に感じて仕方がない。
通り過ぎる道や建造物も昼間であれば見慣れた光景である筈だった。
だが、既に店じまいをした薬局の奥の暗闇に何かがいるような気がしたり、夜風にそよぐ街路樹の影に無意識に身構えてしまったり。
どうしても目に入るもの全てに怯え、猜疑心を湧き上がらせては神経をすり減らす。
何度同じように消耗しても、どうしても感情を抑えられなかった。
――だが、疲弊こそすれそれらは無駄ではなかったのだろう。
住宅ばかりだった光景の中にちらほらと小規模な会社の事務所や雑居ビルが混ざり始めた時――不意に、通過した空き地の奥から彩度の低い夜景の中で明らかに異質な、全身が目に焼き付く程の濃緋色をした人影が此方に向けて接近しているのを横目で捉えてしまったのだ。
「…………っ!」
振り返って確認する事はしない。
すぐにペダルを踏む足に全力を込め、もはや脇目もふらずに全速力で走行する。
決して聞き間違いなどではないだろう、背後からは絶えずぺたぺたと湿った足音が聞こえてきていた。
あれは人間程度の体重で疾走して追尾してきている音だ。
今まで見たコキアケ様はその場から動く事はしなかったが、今回は明らかに状況が違っている。
曲がり角を曲がっても気配は消えず、単に真っ直ぐ走っているのではなく確実にアカリを追跡してきている事が嫌でも解ってしまう。
程なくして見慣れた校門の前に着いたが、道路の反対側から自分と同じく全速力で自転車を漕ぐ人影を発見した。
「創路君っ!」
「せ、先輩! やべーよ、これやべーっす!」
裏返った声、そしてとうに切れた息からして彼もまたアカリと同じ状況である事が予想される。
互いに校門の前に雑に自転車を停め、もはやスタンドを立てたり鍵をかける時間すら惜しんで横倒し状態で投げ出して門扉に手をかけた。
アカリは手ぶらだったが、マサキは所持していた金属バットを先に校庭に投げ入れたが――果たして、コキアケ様にどの程度効くのだろう。
「もう時間がない、よじ登ろう!」
警報でも警備員でも、反応してくれるならいっそ御の字だ。同じ捕まるのでも、警備員と得体の知れない化け物だったら圧倒的に前者の方がマシである。
もはや躊躇などせず勢いよく鉄の門扉を乗り越え、校庭に敷かれた砂利の上に着地する。
だが、特に警報が鳴る気配はない。
今時の学校は敷地全体にレーザーで監視がなされているという話をどこかで聞いたような気がするのだが、赤烏高校は上質な機械警備を導入出来ない程に資金不足なのだろうか。
だがそんな事を気にしている余裕はなく、二人は急いで校庭を駆け抜け向かって右側の家庭科室を一直線に目指していく。
壊れた鍵の位置を知っているアカリが前に立って窓の一つに手を当て、横にずらせば――やはり抵抗なく開き、簡単に侵入経路を確保する事ができた。
「せ、先輩早くっ!」
マサキが悲鳴じみた声を発するより一瞬早く、アカリも状況をなんとなく察知していた。
砂利に着地する足音が、二つ。
もうここまで来れば、振り向かずともそれが駆けつけてきた警備員や教師でない事くらい容易に想像がつく。
「う、うん……! 創路君もすぐ来て!」
震える手で何とか窓枠を掴んで乗り出し、安全性よりも迅速性を重視して家庭科室に身を投げる。
あえて左に寄るようにして転がるようにして受け身を取ると、すぐ近くにマサキが着地した。
彼の体重は男子高校生としては概ね平均的なのだろうが、流石に間近で着地音を聞かされると鼓膜に響く。
少しでも妨害になればと鍵のかからない窓をマサキが閉めている間に、アカリが家庭科室の引き戸を開く。
目的の音楽室はすぐ右に見える階段を四階まで上がっていけばすぐ近くにあるが、踏み込む前に周囲を見渡して確認する。
その際に感じた違和感。
「あれ、何で……ピアノが鳴って……」
微かに聞こえるピアノの音色。
廊下に響く旋律には聞き覚えがある。
それはこの学校の生徒なら行事の度に必ず歌わされる事になる、赤烏高校の校歌だった。
「……! 創路君、あれ!」
一瞬怯んでいる間にマサキもアカリの隣に到着したが、彼女同様に恐怖に目を瞠った様子だった。
今まさに、左側に続く廊下の先――保険室の扉が開き、赤黒い手が飛び出したのだ。




