おとまり
ノゾミの家は高層マンションの四階にある一室であった。
ノゾミには兄弟姉妹がおらず本人と両親だけの三人家族という構成なので、いわゆる寝室兼個室が二部屋という間取りは普段であれば無駄が無いどころか人数的に割とぎりぎりなのだろう。
だが今は人数こそ変わらないものの、全員がリビングに集まっているせいかやたらと全体が広く感じられた。
アカリとマサキがそれぞれ持ち寄ってきた毛布をソファに置いており、ノゾミは自室のベッドから運んできたマットレスを床に敷いている状態なので、他の部屋は完全に無人の状態となっていた。
二部屋を隔てる扉の隙間からは、隣の個室に充満した闇の色が伺えて何となく不気味だ。
マサキもまたアカリと同じ感想だったのか、あるいは普段の何倍も寡黙になっているノゾミが見ていられなくなったのか、何の脈絡もなく立ち上がり沈黙を破った。
「そういや聞いてくれよ据石、そしてパイセンも! 今オレが学校で立てている壮大な計画を……」
アカリとノゾミが顔を上げるが、どちらの目も判で押したように同じようなジト目である。
もちろんこの段階で話の内容など何も解っていないのだが、マサキの無駄に弾む声と後半の『壮大』というキーワードからしてどうしようもなく下らない話が続く事は想像に難くない。
彼のようなお調子者がやたらと壮大だの偉大だのと話を誇張したがる時は、大体その逆の内容が続くのがもはやお決まりのパターンとなっているのである。
「オレは四月から半年以上の月日をかけて、先生含め一年六組全員のパソコンのパスワードを手に入れたんだ……あ、自宅のじゃなくて学校のパソコンルームね」
「どうやったのそれ……」
「学籍番号とか解り易いのだったら訊くまでもなかったし、他はもう直接訊きました! 男子なんかほぼ全員、女子も半分くらい教えてくれたヨッ! あとね、先生は話してる間に手帳を盗み見ました」
早速質問したアカリに対し、ブリッ子が使いそうなうざったい語尾をつけて答えてくれたマサキ。
「え、ちなみに私のは」
「初期パスワードのまんま使い続けるとかガバガバすぎよーノゾミちゅあんっ! ……でもまあ犯罪に使う訳じゃないから安心してくれたまえ。次の情報の授業――運悪く一週間近く後になっちゃったけど、その時にオレは! 全員の個人フォルダにオレの電子ブロマイドを送りつける予定だッ!」
ソファーをお立ち台状態にして小躍りしだした人物を、二人の女が半目で見上げているというこの構図。
「あんた何してくれてんの……しかしブロマイドって……犯罪扱いはされないかもだけど確実に怒られるよそれ……」
「据石氏。リスクを恐れていては何も産み出せないものだよ……あ、ちなみに先生のパソコンから好きな歌のCD流すのも計画中だぜ。USBは全部のパソコンで使えなくしてあるけど、CDは入っちゃうみたいだしねー」
計画実行の日が心底楽しみなのだろう、ソファーの上で軽やかに足踏みする少年。
彼から視線を外したノゾミが、先程から形が変わらない半目のままアカリの方を振り向いてきた。
「先輩、この人どう思います?」
「あー……うん、人生楽しそうでいいと思う……職員室に呼び出されてたら部活でネタにしてあげるね」
立派な墓は立ててやる、と冷徹に宣言しておきつつも――アカリもノゾミも自然に笑い出していた。
大体は冷たくあしらいつつも、アカリはマサキのこういったムードメーカー的な要素を評価していた。
現に恐怖に支配されほぼ無言だったノゾミがこうして少なからず緊張を解いているし、彼のお蔭で空気が和らいだのは紛れもない事実だ。
ノゾミもすっかり雑談に加わり始め、他の部員は居ないものの普段の部活のような光景が目の前に広がり始める。
彼女が泊まり込みの相手にマサキを選んだのは正解だったのだろう。
――逆に、彼がいなければ今夜ノゾミはどう過ごしていたのだろう、とも考える。
普段のファッションから見て取れるように、彼女は個性を主張する事を躊躇わない程度には自己主張したり存在感を出したりするのが常で、勝気とまでは言わないが決して気が弱くもなかった。
そんな彼女が顔面蒼白で口数を大幅に減らしてしまう程の『何か』があったのだろうが――今のところ、その『何か』が起きる気配はない。
†
「そういえば創路、前に突然スカートで登校してきた時あったよね……あの時も先生が入ってくる度にそれぞれ違った反応を……ぷぷっ……」
「えっ何それ見たかった……創路君身体張りすぎでしょ」
「ちゃんと女物のブルマまで買ってから挑戦したんすよ、見せる機会無かったっすけど」
話は時間と共に盛り上がり、やがて日付が変われば段々と全員に眠気が訪れていく。
誰からともなく口数が減り、いつしか全員が心地よい眠気に襲われてそれぞれの寝床に横たわっていた。
――楽しい会話と毛布の温もりで温まった身体を、唐突に内臓から冷やしたのはスマホの着信音だった。
「おっわ、マジビビった! 着信音が校歌ってどんだけ愛校精神に満ち溢れてんだよ! つか夜中はマナーモードかサイレントでしょ!」
真っ先に飛び起きたのはマサキであったが、あの反応からして鳴ったのは彼のスマホではないのだろう。
無論、次に身を起こしたアカリも違う。
ならば――と、消去法で二人の視線がノゾミに向かった。
彼女は、怯えたように双眸を見開いて手元の――赤烏高校の校歌を鳴らし続けるスマートフォンを凝視していた。
真下からのライトに照らされて眩しいだろうが、網膜の感覚を失くしてしまったかのように瞬きすらしない。
「……校歌なんて設定しないし、そもそもどうやって手に入れるのよ」
その一言で、困ったようにアカリとマサキが顔を見合わせる。
再び向き直ってから、先にアカリの方がノゾミに問い掛けた。
「いつの間にかダウンロードされてて、勝手に設定されてたって事? っていうか、鳴り続けてるし電話なんじゃ――」
「出たって変な息遣いが聞こえてくるだけですよ……」
楽しく談笑していた数時間前とは打って変わって、憔悴しきり死んだ眼差し。
スマホを手に取り切断を押したり電源を落とそうとするが叶わなかったらしく、何もかも諦めたように応答ボタンを押す後輩の少女。
――ぁ……はぁ、
彼女の言う通り、何者かの吐息が聞こえた。
肺炎でも患っているような水泡音を伴う痛々しいそれは、男のものとも女のものともつかない。
というより、性別以前の問題で果たして人間から発せられたものなのか疑問にすら思う。
ある程度の年齢に達した人間であれば、苦痛や不快感等のそれらしい感情を表しても良いと思うのだが、電話の相手には理性や人間性が全く感じられず、ただ本能や脊髄反射で呼気を発しているような不気味さがあった。
――通話が相手に切られるまでの間、暫しの無言。
全員が背筋を凍らせてスマートフォンを凝視しており、金縛りに遭ったように微動だにしなかった。
だが、そんな中でもある事について気が付いたアカリは比較的冷静な部類に入ったのだろうか。
(……あれ、この音……)
一定の間隔で断続的に紡がれる呼吸音とは別に、呼吸とは違い途切れる事のない音を聴いた気がしたのだ。
早鐘を打つ心臓を押さえ、必死に耳を澄ませる。
遠巻きで、生物から発せられる音とは異なる連続的なそれ。
遠いが、遠いなりに接近してきている様子だ。
しかし完全な接近をする前のある一定の距離で、今度は遠ざかっていった。
直面した怪奇現象のせいで冷静さを欠きそうにはなったが、この音には聞き覚えがある。
「バイク……?」
そう、アカリが呟いた直後に通話は途切れた。
再び静寂が訪れるも、間髪入れずにマサキが口を開く。
「あ、何か雑音っぽい音が混じってるなって思ったけどバイクなんすかアレ……でも何で、」
彼の言葉は、ふと感じた違和感により途中で消えていく。
噂をすれば、ではないが――マンションの外で微かに、まさに話題にしているバイクの走行音が聞こえたのだ。
どうやら隣接する駐車場に停止したらしく、程なくしてマンションを通り過ぎた所で音が止んだ。
「……偶然、かな……」
半ば独り言であったが、ノゾミがかぶりを振った。
「……多分……あのバイクの音が聞こえる範囲に、コキアケ様がいたんだと思います」
怯えきり、消耗した末に恐怖を通り越して諦観へと移ろい始めた彼女の瞳が呆然と虚空を見つめている。




