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日常の1コマ

 ――窓から月明かりが差し込み、夜の校舎を照らす。

 廊下には湿り気のある足音と、必死に暴れながら絶叫する少女を引きずる騒音が絶えず響き渡っている。

 が、機械警備による警報が鳴る事もなければ警備員が駆けつけてくる事もない。


 どれだけ杜撰(ずさん)な仕事をしているとしても、例え居眠りしていたとしても、断末魔に近い悲鳴が絶えず聞こえていて気づかない者は居ないだろう。


 しかし、どういう訳か誰一人として少女を助けには来てくれない。


 血を塗りたくったか、あるいは生皮を剥ぎたてで生肉を曝け出したような色の手に襟首を掴まれ、酸欠で落ちそうな意識を何とか繋ぎ止めて擦り傷と打撲だらけの手足を振り回すしか出来ない少女。


 そんな彼女の努力も虚しく、微かなピアノの音色に誘われるように赤い肉人形が音楽室に飛び込んだ。

 この学校の生徒である少女もよく見慣れた筈の部屋だが、奥の誰も触れていないピアノの鍵盤が勝手に沈んで校歌を演奏していたり、その近くの引き戸の向こうには()()()()()()()()()()()()()()()()()が敷き詰められていたりと、いくつもの異常が視界に入り込んでくる。


 この部屋の中で最も異彩を放つ縦方向の水面に向かって引きずられながら、少女は遠くない未来に訪れるであろう自らの死を悟り――これまでの人生でやり残した事を思い出していた。

 数えだせばキリがないが、やはり一番強い悔恨として心に残っているのは、想い人に気持ちを伝えられなかった事だ。



「……こんな事なら、」



 ――その続きを言葉にする体力も、時間もない。

 目前に迫った垂直の池を一瞥し、せめてもの自分が生きた証として、手首に巻いていた銀色を雑に引きちぎる。


 留め金が簡素な作りのため容易く外れたそれは、鎖に付属したチャームと共に古木の床に置き去りにされた。


 ――『池』に沈められた彼女の心に残されたままの、一握りの後悔のように。




 ――



 ――――




 †



「小流パイセンは怪談って信じるっすか?」


 窓から差し込む陽光がすっかり黄昏色に染まった頃、他の部員達と部室の片づけをしている最中にアカリに掛けられた声。

 パイセンなどとふざけた呼称を用いる人間は一人しかいないため確認するべくもなかったが、マサキ本人を見るためというよりは他の人物との距離を見るために振り返る。


 ほんの一時でも異世界を認知した人間だけが訊いている場合と、そうでない人間もいる場合では答える内容がまるっきり変わってくるからだ。

 ――そして、アカリは今マサキ以外とは距離が開き会話の内容が彼以外には聞こえないだろうという判断を下す。


「あんまり信じる方じゃないかな……っていうのが世間に白い目で見られないための無難な建前。本音を言えば小さい頃からそういうのもあるんじゃないかなって思ってるし、実際創路(いつじ)君も怪談話くらい信じたくなるような場面を見たでしょ」


 例の図書館を実際に見たマサキ相手だからこそ本心を答えたが、やはり彼からも馬鹿にするような反応は返らなかったし、彼自身すごく納得したように頷いていた。


「そうっすよねー、オレは全く信じてなかった方なんですけど、流石に()()()()見たら意見変えたくなるっすよ」


 どこか遠い目で窓の外を見遣り、小さく嘆息するマサキ。

 釣られるようにアカリもそちらに視線を向ける。


 アドロスピアで退けた銀髪の悪魔が現れる気配は、まだない。

 そもそも、ヴァルゴはこのような目立つ場所に襲撃をかけてくるのだろうか。


 いずれにせよ今考えてもどうしようもないため、マサキよりも先に窓から視線を外して彼に向き直る。


「怪談かぁ……実はあたし、狭間の図書館に行くよりもずっと前にそれらしい体験をしたかもしれないんだけど……図書館を知ってるマサキ君になら話しても信じて貰えるのかな」


 話題を怪談に戻すついでに、もしかしたら怪談に分類されるかもしれない体験談を持ち出してみる。

 眼前の後輩はどうやら食いついたようで、即座にアカリの方を振り向いていた。


「え、何すかそれ。超気になるんですけど」


「といっても良くあるタイプの怪談みたいに人が死んだり行方不明になったりする訳じゃないんだけど……」


 期待させておいて気に入るタイプの話でなかったら申し訳ないのでそう前置きつつ、アカリは話を続けた。


「まだあたしが小学校に入る前の話なんだけど――お母さんの部屋にね、綺麗な硝子の小瓶があったの」



 †



「お、未知の領域だからはしゃいでるのかな」


 背後から楽しそうな父の声が聞こえる。

 彼はしゃがんでいるが、それでも当時のアカリの身長よりも高い位置から話し掛けてきていた。


 アカリは最近やっと『赤ちゃん』ではなく『幼児』と呼ばれる年齢になってきたくらいで、何とか自力で階段の上り下りが出来るくらいに成長していた。

 何せ子供は出来る事が増えると嬉しくて何度も挑戦するものだから、親がいる時はもっぱら階段のある場所に引っ張って付き添いを要求するのである(本当は一人で自由に楽しみたいのだが、そうすると親は危ないからとアカリを捕まえてしまうので我慢だ)。


 今日は母が急に仕事になったため家に父親しかおらず、監視の目が緩いため二階に上がってもアカリが落ちないよう階段の前を陣取っているだけの状態で、迷わず直行すれば各部屋には入り放題の状態だった。

 普段なら二階に母がいたりして空き部屋(後のアカリのための部屋)にしか入れなかったりするのだが、今日はツイている。

 溢れる好奇心のまま、二階の廊下を駆け抜けていつもの空き部屋の一つ手前にある扉に突撃しそのままの勢いで背伸びしてノブを捻る。


「あっ! アカリ、そこは母さんの部屋だから駄目だよ」


 背後から父の慌てる声が聞こえてきたが、幼いアカリからすれば知った事ではない。

 小さな手で今しがた開きかけた内開きの扉を押し込み、母の部屋に踏み込んでいく。


 照明はついていないが昼間故に窓から光が差し込んでいて、視界は概ね良好だ。

 だから、背の低いチェストの上でキラキラと光を反射する小瓶のようなものをすぐ見つける事が出来たし、迷わず手に取っていた。


 ガラス製の小瓶……というより壺は、当時のアカリの手にはぴったり収まるサイズであり、紫色の花が描かれており非常に目を惹いた。

 中には白っぽくザラザラした欠片のようなものが入っているが、それを詳しく確認する前に接近してきた父に慌てて奪われてしまうのだった。



 以降、アカリが言葉を覚えてからは少し高い位置に置かれた小瓶が何なのかしつこく父に訊ねたらしく――ある日、保育園で飼育していた蝶が死んだ日。

 初めて死に触れた体験を父に話した時、母の部屋にあるのは骨壷であり、中身は死産したアカリの双子の弟の遺骨であると教えてくれたのだった。


 死産故に戸籍には名前がないためアカリは部屋の前に行くたび勝手につけた弟の名前を呼び、父親同伴のもと中を開いて遺骨に話しかけたりしていた。



 それから少し成長し、たまたま両親が数分家を空けた日があったのだが、その時は自力で楽々と階段を登れるようになり、真っ先に『弟』に向かったのを覚えている。

 手もぎりぎりで届くようになっており、ガラスの壷を背伸びして取りいつも以上にワクワクしながら中を開いた。


 ――が、



 弟は、いなかった。



 遺骨が粉一つ残さず忽然と消えており、また壷の底が抜けて深い闇が広がっているように見えているのだ。

 そこから微かな風が吹いてアカリの頬を撫でたような気がし、そのあまりの冷たさに鳥肌を立て、慌てて骨壷に蓋をし棚に戻したのである。



 以降は気味が悪くなり、また遺骨がもし消えていたら親になんと言われるか解らないためどうなったか確認も出来なければ、触れる事すら出来ていない。


 今も外観だけは何事もなかったかのように、ガラスの骨壷は母の部屋に置かれたままだ。



 ――これが恐らくアカリが経験した最初の『怪談』である。

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