極彩の書架※
――静寂を引き裂く悲鳴。
勿論アカリは背後の気配に全く気づけていなかったので叫んだ後も情けなくその場にへたり込んで、驚倒のままに白服の少年を見上げていた。
「なっはははー、いやーこの人いい悲鳴上げるねー!」
音も気配も全くアカリに感じさせずに肉薄していた天使――としか表現しようのない白鳥じみた羽を持つ姿――の少年は、その場にしりもちをついたアカリを軽やかに笑い飛ばし、腹を抱えて指まで差していた。
「やめてくれたまえ、あんまり笑ったらアカリ殿が可哀想ではないか」
「よく言うよ、君だってグルじゃないか」
文脈からして、どうもシオンは少年の存在に気づいていたようである。
思わず恨めしげに振り返った少女の勢いに、彼は「すまないね」と謝罪を述べるものの反省の色は全く伺えない。
「二人してからかうとか最っ低! っていうか、あなた誰っ!」
礼儀だの作法だのは敢えてかなぐり捨てて、アカリは勢いよく天使の顔面を指差した。
「見てわかんないのー? 天使だよ天使。このビボーにコーゴーしさ。しかも人畜無害で愛らしい! 僕以上に天使らしい天使なんて存在しないでしょ」
確かに見てくれだけなら『らしい』存在である。
中学生くらいの年齢だろうか、身長はアカリよりも若干高い程度だ。
肩上で揃えた緩く波打つ金髪も垂れ目寄りな氷色の瞳も全体的に色素が薄く、黙っていれば儚げな印象を与え――るかと思ったが、シオンとはまた別種の外見年齢にそぐわない余裕の笑みがそうさせない。
他に特徴的な部分と言えば頭に浮かぶ金の輪だろうが、前方が途切れており正確に言えば輪ではない。
「とりあえず人畜無害はダウト。……で、シオンみたいにまた名前を好きに呼んでいいパターン?」
「シオン……?」
天使が不思議そうに悪魔を見遣り、勝手に得心したらしく「なるほどねー」などと呟いていた。
が、再びアカリに向き直る。
「じゃあ僕は『エーデル』で。それより話は変わるんだけど、二人とも一体何してたの?」
取って付けたような名を名乗った後、二人を見比べる天使の質問に対し肩を竦めつつシオンが手短に答えた。
「アカリ殿がだね、アドロスピアを探しているのだよ」
「はぇー、こんな辺鄙なトコまでお疲れ様ー! けど、シオンちゃんがこんなじゃ『こっち側』は探せないでしょ。僕が一緒に行ったげよっか?」
得意げに自らを指差す天使に訝しげな眼差しを向けた後、アカリは彼の信頼性を言外に問うべくそのまま首ごとシオンの方を振り返る。
「安心したまえ。人間なら大体は彼の敵ではないからね。いきなり切りつけられたりはしないのだよ」
なら他の種族ならどうなのかという疑問が即座に脳裏を過ぎったが、とりあえずシオンの評価を信じる事にした。
「……えーっと、じゃあエーデル。アドロスピアの本がある場所まで案内して貰えるかな」
未だに少しぎこちなくはあるが、とりあえずアカリは天使に対して同行を願い出た。
「もっちろんオッケー、それじゃ白い方の燭台持って僕についてきてー」
二つ返事で快諾したエーデルの背を追いかけつつも、二度ほどシオンの方を心配そうに振り返るアカリ。
だが本人の言う通り負傷している様子も無さそうなので、そのまま白の燭台を持ってアドロスピアを探す事にした。
†
以前訪れた時から代わり映えのしない白と黒の本棚の羅列に挟まれた道を、以前は見かけなかった天使の持つ黒い燭台と白い炎が照らす。
天使と彼の紡ぐ聖歌じみた旋律の鼻歌(ただし本人の印象と声音のせいであまり厳然さは感じない)を除けば同じ光景が続くのみかと思ったが、思ったより早く変化が現れたようだ。
「扉なんてあったっけ……前来た時は見つけられなかったな」
本棚と本棚の連結を切断し、間に割り込んで何食わぬ顔で継ぎ接ぎしたように屹立する白の大扉。
アカリ本人がそれを見上げながら呟いた通り、前回の移動範囲には存在しなかった――と、本人は思っている。
ただ、そもそも丸テーブルや燭台がある光景は道中何度も見かけたため、現在地の座標が一度目とどれだけ離れているのか全く見当がつかないのだが。
――などと現状を整理していると、天使がいつの間にか振り返っていた。
「さーてアカリン、準備はいーい? 君にとって光は安息を与えちゃうかなー? 行っちゃう? 開けちゃう?」
「アカリンって……まあいいや、大丈夫」
常に笑顔、持って回った言い回し。
口調や性格こそ違えど、図書館にいる者は皆同じような特性を持つのだろうか。
そもそも彼らはここで生まれたのだろうか?
疑問は解消されぬまま、白い扉が開放され――四角く切り取られた白一色が、眼前に広がった。
眩しくも何ともなく、床を見下ろせば一切照らされていない。
光が差し込まないなら明るい部屋には繋がっておらず、ただの白い壁なのではないか。
いかにも人をからかいそうな子供(実際は幾つだか知らないが)がいるため早くも疑心暗鬼になるが、件の人物はアカリの目の前で純白の中に踏み込んで姿を消してしまったのである。
慌てて後を負い、一歩踏み出してみれば――
「――っ!?」
あまりに眩しく、反射的に瞼を下ろし身を強張らせる以外に成す術がなかった。
目を瞑ってもなお瞼をすり抜けて眼球を焼かんとする光に太刀打ちできず、一歩後ずさりかけたその時――
「……?」
不意に、差すような目の痛みが消える。
恐る恐る目を開いてみれば、まず最初に手元の燭台に灯った黒い炎に視線が留まった。
それから顔を上げれば――
『――よ、今こそ民を虐げる邪悪な王を討ち取り――』
『――の迷宮の底に眠るは、偉大なる魔術師の――』
『――待ってろ、俺が必ず君の病を――』
色とりどりの鮮やかな本達が、本棚の中でめいめいに世界の一端を読み上げている。
数々の音が、光が、色が溢れ、眩いまでの『生』を感じさせた。
黒い炎が光を打ち消せない遠方は、あまりに眩く白んでいる。
まるで、無彩の書架とは真逆の世界だ。
「アカリン、ぼーっとしてるけど大丈夫ー? やっぱ人間には眩しすぎた?」
エーデルの手にした黒の燭台からは既に火が消えている。
シオンが闇の中で光を必要としないように、彼もまた光を遮る闇の加護は不要なのだろう。
「大丈夫、この燭台のおかげでなんとか……。ほんと不思議だね、あっちとは真逆」
振り返った先には開きっ放しの黒い扉。
――向こうから見た時は白い扉だった筈だが、その奥の黒い闇に対し全く光が差し込んでおらず不自然に境界線が生じている事も負けず劣らず不思議である。
どちらも拮抗し、一歩も譲らず互いの世界を築いている。
アカリの住む世界の物理法則も常識も、ここでは意味を成さないのだろう。
「アカリンみたいな人間でもこうなんだもんなー。シオンちゃんなら洒落にならないレベルでキッツいだろうに、何でちょいちょい来るんだろうねー」
大きく首を傾げ呆れを隠さずに言い放つ天使に対し何か答えようとした――が、アカリより早く彼が次の言葉を紡いだ。
「アカリンってさ、何で悪魔に魂を捧げてまで異世界に行きたがるの?」
首を傾げたまま、笑顔のまま、表情もアカリを射抜く目線の位置も一切変えず――天使は、少女に問いかけていた。




