第21話「板挟みの心」
佳音が倒れた。その言葉だけで宗から余裕は消えた。
「翔也。今どこにいる!?」
「町から登ってくる道の途中にあるベンチです。」
「わかった。今から行くからそこで待っていてくれ!」
翔也の返事も聞かずに宗は電話を切る。そして、あかりにベッドの用意だけお願いしてすぐに走りだした。
「佳音!」
「宗さんっ!」
倒れた佳音を抱えている翔也。宗はすぐに駆け寄って声を掛ける。
「佳音!大丈夫か?」
一度、同じような状況、すなわち佳音が倒れていてそれに声をかけるという経験がある。
その時とは血も流れていないし、外傷も見当たらない。けれども…
(完全に意識がないな。脈は…ある。ということは、命に別条はないということか。)
とりあえずの状況を把握して宗は少し落ち着いた表情を見せた。
「とりあえず、僕が背負っていくからまずはペンションに行こうか。荷物は持って行ってもらえるか?」
「は、はい。分かりました。」
緊張が抜ききれないような表情で翔也が返事をした。
佳音を前から優しく持ち上げる。俗に言うお姫様抱っこというやつだ。背負うことも考えたが、本人に力が入っていない以上この方が楽だと判断したのだ。
(こんなに軽かったか…。)
思ったよりも軽い体に驚く宗。だが、彼はその気持ちを表に出さずに歩き出す。
今は1秒でも早く、佳音を寝かせることが最優先だった。
無言のまま歩くこと5分。ようやく佳音をベットに寝かせることができた。
心配そうに見守る翔也とあかり。その2人に一言断ってから宗は1人の人物に電話を掛ける。コールは1回で出た。
「宗くん。一体どうしたというのかな?」
此の人物は佳音の担当医。外科の方ではなく、精神的なサポートの意味での担当医だ。どうも、電話に出た感じから診察中ではなかったようだ。
「先生。実は…」
宗は今までのあらましと現状を報告する。そこには翔也の告白も含まれる。今はちっぽけなプライドよりも現状を予測してもらうほうが大事だった。
「うーむ。佳音さんが倒れたと。とりあえず、脈と呼吸は安定してるということでいいかね?」
「はい。それは確認済みです。」
「それなら単純に気絶と考えていい。思うに強迫症の一種かと予測する。」
「強迫症…ですか?記憶どおりなら症状が大きく異なると思うのですが。」
「おっと、一般的な強迫症というニュアンスではない。言葉が悪かったかね。要は、心の拒絶反応といったところか。話を聞くところ、えーと…翔也くんといったかね。彼に告白されたことで彼女はその想いに答えざるを得なくなった。返事を返すという意味でね。
けれども、その場所には『君』がいて、それは彼女にとってそこにあるのが当たり前であるのだよ。たとえ人の命を奪ってまでも欲しかった場所。
だが、想像するに今の環境も彼女にとってもかけがえの無いもので、その彼にしてもその一部だった。そうして、答えの出ない問いを繰り返した結果、彼女は心を閉ざすということで対処してしまった。想像するにそんなところじゃないかね?」
「…これだけの情報でそこまで推測できるのですか。この場合、対処法ってありますか?」
「対処法よりも、先に症状の可能性を論議するべきだろうね。この場合、最悪の可能性はこのまま起きないこと。心が死んだまま起きないということはそれは植物人間と大差ないということだ。けれども、この可能性は限りなく低いだろう。そもそも、心的ストレスから意識が戻らなかった事例は稀と言っていい。
大筋、もうすぐ意識が戻るだろう。私の予測では、この時に何らかの抑制がかかってると考える。」
「抑制ですか?」
「そうだ。この場合一番酷いもので、記憶消失。自分の存在すら思い出せなくなる。まあ、一時的な記憶障害というのが一番可能性が高いだろうね。
君のことか、告白した彼のことか。はたまた両方か。そういった、自分にストレスとなる部分の記憶を忘れている可能性が高い。といっても、元々心の整理が着くまでの応急処置でしかないからね。いつもの定期的な『退行』があっただろう。あれみたいに1日となることはまず無いね。この時間からなら…夜には記憶は戻るだろう。」
「本当ですか!?」
「もちろん、可能性の話をしてるのだから100%とは言えないね。けれども、高確率でそうなるとみて間違い無いだろう。」
「分かりました。ありがとうございます、先生。」
「遠隔で話をするのは辛いねぇ。精神科の先生としては患者と直接話すのが仕事だというのに。けれども、こうやって理解者がそばにいる。それは患者にとって尤も支えとなるものだ。誇りに思うべきだ。」
「…はい。ありがとうございます。それでは。」
そういって電話の電源を切る。
(誇りに思うべき…か。安心して下さい、僕はもう誇りに思ってますから。)
誰に伝えることもせず、心の中でつぶやく。そして、佳音が寝ている部屋に戻った。
「あ、宗さん。」
すぐに反応したのは、翔也。やはり先ほどのことがあったからか、佳音に近づくのをためらっているのだろうか。代わりにあかりが傍で看病をしてくれた。
「2人ともありがとう。今、佳音の担当医に話を聞いてきた。それによると、佳音の症状は、一次…」
「あ、佳音。気がついた?」
だが、その宗の言葉はあかりの叫び声によってかき消された。
「佳音さん!」
翔也も宗もすぐに駆け寄る。佳音は意識が朦朧としているようだが、なんとか起き上がって話はできそうだった。
「あかり…ちゃん、翔也くん。ありがとう、もう大丈夫だよ。」
その言葉に翔也は得体のしれない違和感を感じた。何かが足りない。それが何かに気づく前に佳音の言葉は続いた。
「えーと、そちらの方はどなたですか?」
決して強い言葉ではない。けれども、本来ありえない言葉に3人ともが言葉を返せずに黙りこむ。僅かな静寂が4人を襲った。
その静寂を最初に破ったのは翔也だった。
「佳音さん、何を言…」
けれども、翔也は最後まで言い切ることができなかった。宗が手と言葉で続きを制したからだった。
「初めましてかな。僕は、あかりさんと翔也くんの知り合いで、あなたを診察しにきたんです。先程見た感じ外傷も何もありませんでしたのでご安心下さい。」
違和感しかない言葉の押収。けれども、当事者の2人は何食わぬ顔で話をすすめる。
「そうだったのですか。わざわざありがとうございます。お名前はなんとおっしゃいますか?」
「名乗るほどのことはありませんよ。学生の身分ですから、モグリみたいなものです。
それでは、私は少々離れさせていただきますね。また何かありましたら、遠慮なくおっしゃって下さい。」
「お気遣いありがとうございます。」
翔也とあかりが現状を把握できていないうちに話は進み、宗は部屋を出ていく。
その時になってやっと2人の時は動き出した。
「宗さん!」
慌てて翔也は立ち上がって宗の後を追う。そのため、部屋の中には佳音とあかりしかいなくなってしまった。
「今の人、宗っていう名前なの?」
佳音にとっては素朴な疑問。けれども、その言葉はあかりの心に深く突き刺さっていく。
「そうですよ。前にあったことがあると思うんですけど…覚えがありませんか?」
きっと宗さんには何か考えがあるのだろうと無意識下で考えて、この状況を壊さない範疇で質問を返す。
「うーん、記憶にないなぁ。何か気になる名前ではあるんだけどね。」
けれども、帰ってくるのはわずかに残された希望と大部分を占める絶望だった。
翔也にとっては、直後のつもりだったが実際には反応するまでに時間がかかったのだろう。翔也が宗に追いついたのは、ペンションの扉の外だった。
「翔也。どうしたんだ?」
「宗さん。あれは医者に指示された言葉ですか?」
どうしても、確認したかった事項を尋ねる。
「いや、あれは僕の独断だよ。」
パンッ!
その言葉に返す言葉はなかった。代わりに翔也の平手が宗の右頬に当たった。
宗があっけに取られている間に翔也は言葉を畳み掛ける。
「どうしてあんな言葉を吐いたんですか!どうして…どうして一番かけて欲しいはずの言葉をかけてあげないんですか!」
「言いたいのはそれだけか?」
宗は翔也の言葉に低いトーンでそう返した。その声は怒りを押し殺しているように感じて、さっきまで怒っていたはずの翔也の方が萎縮してしまう。
「ご…ごめんなさい!」
土下座でもしそうなほど切羽詰まった声で翔也は頭を下げる。
「ごめんな…。頭を上げてくれ。」
次の言葉はいつもの宗だった。
「別に頬を叩かれたことを怒ったりしてないよ。おまえも意思があってやったことだろうし、それが僕を思ってやってくれたってこともわかるから。
けどね、現状はこちらのほうがいいはずなんだ。それは譲れない。」
「でも…。」
「頼む、妥協してくれ。いずれ話すけど今はこれしか取れないんだ。あと、もしも僕に対して負い目を感じてるなら、佳音のそばに居てやってくれ。
それが謝罪の代わりだ。」
「そんなことじゃ…謝罪になりません。」
「感じ方は人それぞれだよ。じゃあ、僕はリビングにいるから。」
そう言って、ペンションの中に戻る宗。けれども、翔也はしばらくの間動けなかった。
むしろ、宗が起こってくれたほうが良かったかもしれない。怒りの向ける先が思いつかなくなり、不完全燃焼といった気分だった。
(どうして、僕に佳音さんを任せるんだろう…。)
その思いが翔也の頭から離れなかった。




