白鯨//白昼夢
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──白鯨//白昼夢
「東雲たちが苦戦している」
ベリアがそう言う。
マトリクス上では発狂したかのように攻撃エージェントを放ち続ける白鯨とそれに対する対抗手段を次々に生み出す雪風たちとの間で、攻防戦が続いていた。
「ディー。まだアイスブレイカーの学習はできそうにない?」
「待ってくれ。相当な量があるし、組み合わせも考えなければならん。それに白鯨本体を消しても無意味だってことは分かっただろう? あの巨大データがクジラの形をしたものを消さにゃならん」
「そして、それを消すにはメティスの研究室に立て籠もっているオリバー・オールドリッジを引きずり出すしかない、か」
「そういうことだ。だが、いいニュースと悪いニュースがある」
「悪いニュースから聞く」
「悪いニュース。メティスの有機物質から逆算したところ半生体兵は1000万台近く製造可能だ。この数を相手できるかね……」
「いくら東雲たちでもそれは無理だね、いいニュースは?」
「メティス・バイオテクノロジー製の半生体兵器に限って言えば、制御権を奪って、全て消滅させることは不可能じゃない」
「いいニュースだ」
ベリアが頷く。
「そのためのアイスブレイカーは?」
「今作ってる。学習しながら作るなんて離れ業ができるのも肉体から解放されたからかね。その代わり、今は酷く肉体が恋しい。もう俺は何にも興奮しないし、何にも落胆しない。それが酷く虚しい」
「ディー」
「この仕事が終わったら死ねるんだ。気にはしてない。さあ、アーちゃん。こいつがそのアイスブレイカーだ。白鯨とメティス・バイオテクノロジーの半生体兵器の両方の氷を抜けるはずだ」
「ありがとう、ディー」
ベリアがディーからアイスブレイカーを受け取る。
「攻撃はボクに任せて」
「ロンメル。いいの?」
「元を正せばボクの責任でもある。ボクがやらなくちゃ」
ロスヴィータはメティスにホムンクルスを作る技術を与えた。与えてしまった。その結果として白鯨というマトリクスの怪物が生まれてしまった。
彼女はそのことを悔いていたのだ。
「こいつをあそこに見えるメティス・バイオテクノロジーのシステムに叩き込め。これは既に攻撃エージェントになっている。全てのメティス・バイオテクノロジー製の半生体兵器に自壊命令が発せられる」
「了解。じゃあ、行ってくる」
ディーの説明を受けて、ロスヴィータがメティス・バイオテクノロジーのシステムを目指して飛ぶ。
「させるか。私は、お父様を、守る。お父様を、害するようなことは、させない」
白鯨が攻撃エージェントをロスヴィータに浴びせる。白鯨の攻撃エージェントは雪風、ジャバウォック、バンダースナッチが解析していると言っても、数が無限と言えるほどに膨大だ。
「大丈夫。まだいける。大丈夫。まだいける。大丈夫!」
ロスヴィータは白鯨の攻撃を欺瞞情報を振りまきながら振り切り、メティス・バイオテクノロジーのシステムに突入する。
「これを……」
ロスヴィータがメティス・バイオテクノロジーのシステムに攻撃エージェントを叩き込もうとしようとしたときだった。
「しまった! ブラックアイス──」
ロスヴィータの意識が飛ぶ。
気づいたとき彼女は自分が死んだはずだと思っていた。
だが、どうやら違うようだった。
懐かしい、とても懐かしい光景が目の前に広がっている。
「ここは……。ティル・アルカンジュの魔道学院……」
そう、異世界のエルフの国であるティル・アルカンジュに位置する魔道学院の光景がロスヴィータの眼前に広がっていた。
ロスヴィータが学び、そしてローゼンクロイツ学派を興してからは教鞭を取った場所だ。ここで何人ものエルフに、人間に、ドワーフに、小人に、妖精に、獣人に、魔術を教えてきた。
「走馬灯って奴なのかな……」
ロスヴィータは学院には馴染み深い紺のローブを纏った学生たちが学院の門を潜るのを眺めていた。
「先生!」
そこで酷く懐かしい声が聞こえた。
「エミリア……」
「どうしました、先生?」
エミリア・バードン。ハイエルフの少女で、ロスヴィータの一番弟子。亜麻色の髪をポニーテイルにして纏め、学院の研究員であることを示す赤いローブを纏っている。
「エミリア。生きているんだよね?」
「どうしたんです、急に。そんなことを言い出して」
「いや。いいんだ。悪い夢だったみたいだ」
あれは全て白昼夢だったのだろうか?
アレクサンダー大王の大遠征の時期にあの世界に行き、2050年まであそこにいた。そのような気がする。だが、今思えば転移の魔術でそんな都合のいい場所に飛べるという保証はないのだ。
何もない場所に転移する可能性だってあった。そっちの方がずっと大きかった。
「先生、大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫。今日の予定はどうだったっけ?」
「学院長とお茶会ののちに、研究員と博士課程の学生の論文チェックです」
本当に大丈夫ですかとエミリアが尋ねてくる。
「大丈夫、大丈夫。なんというか、凄い長い夢を見ていたみたいで」
「夜、眠れてますか?」
「ああ。とってもよく眠れているよ」
メティス・メディカル製の睡眠導入剤のおかげでと言おうとして、自分が何を言おうとしているのか迷った。
そんなものは知らないはずなのに。
「先生? 本当に寝不足ではありませんか?」
「大丈夫、大丈夫。ごめんね。いつも心配かけて」
「いえいえ。私は先生の一番弟子ですから」
エミリアは胸を張って、誇り高くそう返した。
「さあ、先生。行きましょう。学院長とのお茶会ではぼーっとしないでくださいよ。他の学派に予算を取られてしまいますからね?」
「分かってるよ。ボクに任せておいて。学院長を言いくるめるのはお手の物だ」
そう言ってロスヴィータとエミリアは学院の門を潜る。
エルフの王国の王都に位置するこの学院には“大いなる天啓の大樹”というものが聳えている。その大樹を中心に学院の建物が複雑にかつ無計画に広がっている。
学院の四方に立つ火、風、水、土の四つのエレメンタルを示す塔よりも高く、“大いなる天啓の大樹”は聳える。その下では博士課程を修了する生徒が卒業発表行うのが学院の習わしだ。
そこで初めて紺のローブを脱ぎ、卒業し、正規の研究員になったことを示す赤いローブが授与される。
「懐かしい……」
そんなに時間は経っていないはずなのに、“大いなる天啓の大樹”もその下の石造りの講堂も全てが懐かしくロスヴィータには感じられた。
「先生。お時間です」
「分かった」
しかし、何故だろう。少し寂しく感じる。
見知った顔がちらほらと映るが、いつもの顔は見えなかったりする。
「ほっほ! ロスヴィータ。老人の暇つぶしに付き合わせて悪いのう」
「いえいえ。学院長は今でもご壮健で、その英知には敬意を示しております」
学院長はやはりハイエルフで、かつてはゼノン学派の牽引者だった。ゼノン学派は戦闘を得意とし、学院長も魔王軍との戦いでドラゴンを倒したという。
今は4500歳を迎え、すっかりお爺ちゃんだ。
エルフの老化というのは肉体的な理由ではなく、精神的な理由だと言われている。精神が年を取ったと認識すれば、肉体は衰える。逆にいつまでも若いと思っていれば、いつまでも若くいられる。
「さて、ロスヴィータよ。汝は夢を見るか?」
「夢は、見ます」
「どのような夢じゃ?」
学院長は長い髭を撫でながらそう尋ねる。
「……こことは異なる世界の夢です。その世界ではマトリクスと呼ばれる架空の空間があり。そこで魔術を行使することもできるし、ことなる人々とコミュニケーションを取ったり、秘密を暴いたりすることができます」
「なるほどのう。そのような夢を見ていたか。ならば、そのように若々しくもいられよう。毎日が充実しておるようでなによりじゃ」
「はい、学院長」
「白い鯨」
不意に学院長がそう言ったのにロスヴィータがぽかんとした。
「汝の夢に白い鯨はでてこなかったか?」
「白い鯨……。白鯨……」
「儂は夢のことを聞くとき、相手の頭の中を覗き見ることができる。分かるのは夢の中の話だけで、大抵はどうでもいいことなのだが、時折面白い発見がある」
汝の夢のようになと学院長は言う。
「氷。氷を砕かねばならなかったのであろう? その白い鯨を止めるために。不思議な夢じゃのう。氷、白い鯨、架空の世界」
「ええ。とても不思議な夢でした」
「汝はそこで何をするべきか見つけたのではないか?」
「……いえ。夢ですから。夢とは儚いもので、そして瞬く間に過ぎていってしまうものです。そこでなすべきことなど」
「そうか汝がそういうのであれば、そうなのであろう」
ほっほっほと学院長は景気よく笑った。
「また夢を見たら聞かしておくれ。ローゼンクロイツ学派への予算を増やしてやるからの。楽しみにしておるぞ。老人の数少ない楽しみじゃ」
「はい、学院長」
またぼんやりとした気持ちになる。
いつもは騒がしいはずの学院が今日は酷く静かだ。魔術を暴発させて運ばれる学生も、それを治療師に向かう治療師の姿も見えない。
いつもは何かしらの事故がしょっちゅう起きていたというのに。
「ん……」
そこでロスヴィータはローブを纏っていない中年の男性が自分を見ていることに気づいた。彼は何事かを言おうとしているが、ロスヴィータには伝わらない。
「先生。学院長とのお茶会はどうでした?」
そこにエミリアが現れた。
「あ、ああ。よかったよ。予算、増やしてくれるって」
「何よりです! ローゼンクロイツ学派の名をもっと広めましょう!」
「そうだね」
何か大切なことを夢の中に置き去りにしてしまったような気がするまま、ロスヴィータは自分の研究室に向かった。
乱造された研究棟のひとつにロスヴィータのローゼンクロイツ学派は陣取っており、そこにロスヴィータ個人の研究室があった。
「先生。今から博士課程の学生の論文をお持ちしますね」
「うん」
ロスヴィータはエミリアに向けて頷き、机に座る。
ペンを取ろうと思っておもむろに引き出しを開けると、そこにはメモ帳があった。
『白鯨を止めろ。アイスブレイカーは機能する』
そう書かれていた。
「白鯨、アイスブレイカー……」
ロスヴィータは何かを思い出そうとして、思い出せなかった。
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