第十六章・Ⅱ・一人(二)
アルバムの発売も無事に終え、司は今夜は一人にしてくれと皆に頼んで帰路に着いた。
久しぶりに祐一郎の店に顔を出すと、どこか懐かしい見慣れた背中がカウンターに見えた。
その背中が祐一郎に囁かれて振り向くと、二人は目を合わせたまま息を呑んで互いを見ていた。
あれから二人では会っていない。
一瞬ためらったが、司はそのまま黙ってカウンターに座ると、祐一郎にジンライムを注文した。
「一人なの?」
隣に居る秀也に思わず掛けた最初の言葉がこれだった。
「うん、司は?」
司がタバコを銜えたので、目の前にあった自分のライターの火をつけた。
ちらっと秀也を見たが、そのまま秀也のライターでタバコに火をつけると、ふうーっと一息吐いた。
「サンキュ、オレもなの」
秀也は「そう」と言いながら自分のタバコにも火をつけると溜息をつくかのように煙を吐いた。
「何かあった?」
「え?」
久しぶりに会った司に、どう言葉を掛けていいか考えようとした時に訊かれ、思わず見ると、以前と変わらぬ琥珀色の瞳が心配そうに見ている。
「秀也のそのクセ、変わらないんだな」
フッと笑うと、司はタバコを持っている右手の親指をタバコの吸い口にあて、ツンツンとタバコを突付くようにはねた。
「クセ?」
「そう。悩んだり考えたりしてる時にやるクセ。何かあったの?」
覗き込むように訊かれ、思わず笑ってしまった。
考えてみれば8年も付き合っていた恋人なのだ。それに、司の事が嫌いになって別れたのではない。 互いの考え方のズレで別れただけだ。司の事は今でも好きだし、噂を聞いたり週刊誌に取り沙汰される度に心配している。
「お前には隠し事は出来ないな」
そう言って微笑んだ秀也の眼差しに思わずドキッとしてしまった。
以前と変わらない温もりがある。
慌てて視線を外すと、祐一郎がちょうどジンライムを持って現れたが、黙って司の前に置くと何も言わずその場から去って行った。
「ちょっと、疲れてね」
え?
呟くように言う秀也に再び視線を戻すと、バーボンを飲んでいるところだった。つられるように司もグラスを口に付けて一口飲む。
「頑張り過ぎたのかなぁ。あれから息も付く間がなくてね。気が付いたら周りがよく見えなくなってた・・・、ちょっと上手く行かなくてね・・・」
司に視線も向けず、自分のグラスを持つ手を見つめていた。
こんな事を司に言ってしまっていいものなのか、戸惑いながらも何故かホッとしたように口に出してしまっていた。
「・・・、ゆかりちゃんと?」
『奥さん』という言葉を出しそうになって思わずそれを呑み込んだ。
「ん・・・、まあね。倦怠期ってヤツ? 家じゃタバコも吸えないよ」
右手に持ったタバコを軽く突き出しながら司を見ると苦笑した。
「何で?」
「二人目がね、アイツのお腹の中にいるんだよ。何だか大変そうでさ、訳もなく俺に当り散らしてくるからね」
「・・・、それで、逃げて来たワケだ」
ヤツ当たりされる秀也の困った顔を想像して思わず笑ってしまった。
自分もよく不満を秀也にぶちまけていたのを思い出す。
あの時は黙って聞いてくれていた秀也だったが、時々『俺に当ってもしょうがないだろ』と、よく窘められるように言われ、その後秀也の優しさに甘えていたものだ。
きっと、ゆかりともそうなのだろう。
「お前と居た時はこうじゃなかったのにな」
え?
再びグラスに口を付けかけて顔を上げると秀也を見つめた。
怖いくらい真剣な眼差しをした秀也の目に吸い込まれそうになって慌てて視線を外すと、ぐいっと一口飲んだ。
「そう言えばさ」
グラスを置いて思い出したように秀也に向き直ると、先程の眼差しが消えていた事に、少し安心したようにそれでいて少し気落ちしたように続けた。
「今度、写真集出す事なったんだ」
「写真集? お前が?」
珍しいな、と言わんばかりの表情だ。それはそうだろう、ジュリエットの時は殆んどスタッフの言い成りで嫌々出していたくらいだ。
「うん、まだいつ発売になるかも分からないんだけどね。コンセプトが漠然としすぎていて掴めないんだよ。結構長く掛かるかも」
「珍しいな、お前がそんな事するなんて。どういう風の吹き回し? それに漠然としすぎって、何やるつもりだよ」
「テーマは DEAD OR ALIVE。 在りのままのオレの姿を撮ってもらおうと思って。何ていうの、集大成みたいなもの? ま、生きた証っていうか・・」
思わず口を閉じた。
何故か秀也にはそのまま言ってしまいそうだった。紀伊也に話せば、恐らくまた辛辣な表情をするだろう。また苦しめる事になる。
喉の奥のひっかかるものを飲み込むと、グラスに口をつけてぐいっと飲んだ。
「生きた証?」
その言葉から不意に司がとてつもなく遠い所へ行ってしまうような感覚を覚えた。それはまるで、数年前、ステージの上で司が撃たれた時、死んでしまうのではないかと感じた「あれ」にも似ていた。
「司・・・」
「分かってるって。余り心配かけるなって言いたいんだろ?」
思わず苦笑しながら秀也の言いかけた言葉を言うと、タバコを吸って天井に煙を吐いた。
「司、お前何か無理してないか? 前もそうだったけど、頑張りすぎなんだよ。いっつも一人で抱え込んで自分を追い詰めてたろ。もうこれ以上頑張るのはよせよ」
「・・・・・」
秀也の優しく包み込むような瞳に見つめられ、黙ってしまった。
「秀也は・・・、優しいんだな・・・」
呟いてタバコを吸うと、煙を吐きながら灰皿に押し付けた。
「疲れた、のかな・・・、何だか疲れちゃった」
そう言うとフッと寂しそうに笑った。
秀也の言葉が、張り詰めていた糸の一本を切り落としてしまったようだ。
不意に抱えきれない切なさが込み上げて来ると、思わず泣き出しそうになって目の前のグラスを掴むと、それを堪えるかのように一気に飲み干した。
そして黙って立ち上がると祐一郎に合図して、秀也には何も言わずに店を出て行った。
司のグラスを片付けながら秀也と目が合うと、秀也は何か言いたそうだ。
祐一郎は思わず苦笑した。
「行って来いよ」
背中を押すような祐一郎の言葉に、秀也は一瞬司の押し付けた吸殻に目をやると、黙って立ち上がって後を追うように店を出て行った。
「ったく、あいつら・・・」
祐一郎は二つのグラスを片付けながら苦笑すると、自分もタバコに火をつけ、一服吸って、天井に向かって煙を吐いた。
『司と別れたのって、正解だったのかな?』
ボソッと呟いた秀也に祐一郎は呆れた。
『何だよ、カミさんと上手く行ってないからってそんな事言って許されるとでも思ってんの?』
『・・・、そうなんだけど・・。アイツと居た時の方が考えなくて良かったし、ずっと楽だったような気がする。それに今だっていつも司の事気になって心配なんだよ。アイツ本当に一人で大丈夫かなって』
『秀也、それって仲間として心配してるだけなんじゃないの? 晃一もナオも、ここに来る度に同じ事言ってるよ。司は何も言わないけど、問題ないと思うよ。ここまで立ち直れたからね。それに今は紀伊也がまだ居るだろ』
『・・・、そうだけど・・』
『そんなに心配なら自分で確かめてみれば? 秀也がまだ司の事、一人の女として見ているのか、仲間として見ているのか』
そう言って入って来た司を顎で指しながら秀也を見ると、驚いたように司を見ていた。
***
「紀伊也と住んでるって?」
差し出されたグラスを手に取りながら訊くと、司は軽く頷いてワインを飲んだ。
「・・・そっか・・・、少し安心した。で、いつ帰って来んの?」
「さぁ、ね」
浮かない顔をして素っ気無く返事をすると、そのまま秀也の隣に座ってワインを飲んだ。
「紀伊也も忙しいんだな。余り心配かけるなよ。お前の体だってそんなに良いわけじゃないんだろ? お前が紀伊也に心配かければ、あいつだって参っちゃうよ。紀伊也のやってる仕事だってそんなに甘くないんだから」
「わかってる」
「・・・・、何かあったの? 紀伊也と」
黙ったまま手にしているグラスを見つめている司に気になった。
何か悩んでいる時に、グラスを廻すように手首を返す仕草は変わっていない。
「喧嘩、したんだ」
「喧嘩? 紀伊也と?」
「うん、・・・、そしたら出て行っちゃった」
秀也に隠し事が出来ず、思わず言ってしまった自分に苦笑すると、ワインを飲み干した。
「紀伊也が怒って出て行くなんて、お前相当ひどい事言ったんだろ。お前の言う事には一理あるけど、たまにホントにグサって来る事だってあるんだぜ。俺だって何度落ち込んだ事か」
秀也は呆気に取られると、呆れたようにワインを飲んで、空いた司のグラスにワインを注いだ。
「でも、紀伊也も怒って出て行くなんて、意外と可愛いとこもあるんだな。あいつは何か特別だと思ってたけど、それなりに普通の人間だったんだ。何か安心したよ」
自分のグラスにもワインを注ぎながら言う秀也にハッとしたような視線を送ると、一瞬目が合ったが、すぐにそらせるとグラスを手に取った。
「普通の人間、か・・・」
司にとってその言葉は特別な意味を持つ。それによって紀伊也の生涯が変わって行くのだ。
「余り気にするな。その内ほとぼりが冷めて戻って来るさ」
ポンと肩を抱きかかえられるように叩かれてドキッとした。
「お前と居た時は、こんなんじゃなかったのにな・・・」
ボソッと呟くように言うと、肩に廻された手に自分の手を重ねた。
「司?」
「いや、ごめん。お前と居た時の方がもうちょっと楽だったような気がする。何も考えなくて良かったっていうか・・・」
そう言って重ねた秀也の手を肩から外すと、立ち上がってサイドボードの前で止まり、亮の写真を手に取った。
「・・・疲れたよ・・・。兄ちゃん、もう疲れた・・・」
そして、何も語りかけてくれない微笑んだ亮を見つめた。
!?
突然、背後から秀也に抱き締められて写真を落してしまった。
しかし次の瞬間、廻された秀也の腕に自分の手を重ねると目を閉じていた。
優しい温もりのある厚い胸を背中に感じた。
以前と全く変わらない。
変わったものは何だろう。そう思わせる程、時が止まっていたかのようだ。
ゆっくりと司を振り向かせた秀也は
「司」
と、まるで愛しい者を呼ぶようにその名を呼んでいた。
「秀也」
呼び返した瞬間、二人は唇を重ねていた。
どれ程の時が経ったのだろうか。ただ、司にはとても長い時間のように感じていた。
肌を重ねた時も、以前と変わらない温もりをそこに感じていた。だが、互いに「好き」という言葉は出て来ても、「愛している」という言葉は出て来なかった。しかしそれが本心から出て来た言葉だった事に偽りはなかったのだが。
秀也の胸の鼓動を聴きながら目を閉じていた司は、このまま眠りにつきたいと思った。
今、自分がとても安らかな気持ちになっている事に気付いてそっと目を開けると、その先に亮が手を差し伸ばしているような気がして、思わずその手を取ろうと、右手を差し出していた。
「司?」
秀也の声に呼び戻された時、部屋の電話が鳴った。
しばらく目を合わせていた二人だったが、仕方がないというように、鳴り止まない受話器に手を伸ばし、それを取って耳に当てると、久しく聴いていなかった声に耳を澄ましていた。
「・・・・」
「大丈夫? ・・・、今消えそうだったから・・・」
向方も何から話していいのか分からないのだろう。とりあえず今一番気になっていた事だけを伝えて来た。
「え? ・・・何が?」
突然、消えそうだったと言われて戸惑った。
「脳波が・・・」
かすれるように呟いた紀伊也に思わず苦笑してしまった。
「ハハ・・、大丈夫だよ。心配するなって。まだ生きてる」
その先を言おうとして、隣に秀也が居る事に気付いて口をつぐんでしまった。
瞬間、秀也の不安気な眼差しを見てしまったからだ。
紀伊也にも秀也にも何も言えず黙ってしまった。
「誰か居るの?」
しばしの沈黙の後、紀伊也が少し不安そうに訊いて来る。
「いや、いないよ」
思わず即座に応えてしまい、秀也にちらっと視線を送るとすぐにそらせてしまった。
こんな嘘・・・
「その・・」
紀伊也が何か言いたそうだ。 恐らくこの前言い合いした事について何か言いたいのだろう。
が、司は目を閉じると素っ気無く言った。
「ごめん、もう寝かせて。今日は疲れてるんだ」
「ごめん。じゃ」
紀伊也もそれ以上は何も言わなかったので、電話を切ってしまった。
ふうーと、溜息をつくかのように受話器を元に戻すと、サイドテーブルにあったグラスに手を伸ばし、ブランデーを一口飲んだ。
「紀伊也?」
声の方を向くと、秀也が体を起こしてこちらを見ている。
「うん。あっちは昼間だけど、こっちは夜だろ。ホント、勘弁して欲しいよな」
苦笑しながら言うと、グラスを戻した。
「司、お前、紀伊也と?」
秀也の勘ぐるような視線とぶつかり、咄嗟に反らすと否定するように笑った。
「何でもないよ。ヤダなぁ、もうっ。オレ、シャワー浴びて来る」
言いながら司はするりとベッドを抜けて秀也に背中を向けた。
「秀也・・・、もう帰った方がいいよ」
裸の自分の足元を見ながら背中越しの秀也に言うと、そのまま部屋を出た。
秀也に対してあんな事を言うのは初めてだったが、冷静に考えればもっともな事だったし、今さっき秀也と自分がしていた行為も道徳的には決して許されない事だった。
しかし、精神的に最も不安定で行き詰まってしまった時に、一番の安らぎと安定をそこに求めていた秀也が再び現れ、しかも互いに安らぎをそこに求めていた事に、何の抵抗をしなければならないのだろうか。
互いにルール違反だとは解っていても、惹かれあうように互いを求めていた。
ただそれだけだった。
だが、熱が冷めて行くように、醒めて行くと、現実には虚しさだけが取り残されていく。
それを洗い流すかのように、熱いシャワーを全身に浴びた。
・・・もう甘えられない・・・
******
てっきりもう帰ったものだとばかり思っていたが、まだそこに居る事に少し驚いて、髪を拭いていた手を止めると、ソファに座ってこちらを見上げている秀也を見つめた。
服は完全に着て、タバコを一本吸い終わったところだった。
「司、お前さっき変な事、言ってなかった?」
「 ? 」
何の事だかさっぱり解らないと首をかしげると、再びタオルで髪を拭った。
「まだ生きてるって。・・・、何それ?」
はっきりとそれでいて、それが何なのか確かめたいような口調の秀也の質問に、思わず手を止めて食い入るように見つめてしまったが、次の瞬間ハッとしたように戸惑いを隠せず息を呑んでしまった。
「・・・・」
秀也のその瞳を見つめていると、吸い寄せられるように強固に絡まった鎖が緩んで行くようだ。
秀也にこのまま隠し通す事が出来るのかどうかを考える余裕すらなくなってしまい、小刻みに体が震えて行くような感覚に陥ってしまった。
トクン、トクン・・・
次に出て来る秀也の言葉が何なのか不安を抑える事が出来ず、自分の心臓の音だけが妙に響いている。
「なぁ、もう一人で悩むのはよせ。何でそんなに一人で全て抱え込むんだ? いつもそうだ。隙がないくらい頑張りすぎなんだよお前は。今は前みたいに5人でやってるんじゃないんだ。お前一人だぞ。だったらもっと気楽に行けよ。俺達のようなお荷物がもういないんだから、楽なもんだろ?・・・、心配なんだよ、一人で全て抱え込んで、その内潰れちゃうんじゃないかって。・・・、司、もっと甘えたっていいんじゃないのか?」
司を想う秀也の言葉は以前とちっとも変わらない。それよりむしろ、以前よりも包容力のある言い方だ。司自身に今、一寸の余裕がないせいもある。司の小さな心を覆っていた強固な氷の壁が砕かれるようだった。
トクントクン、という小さな音から、ドクンドクン、とはっきりと波打つような音へと変わって行った。
徐々にそれが早く激しくなり、今にも飛び出しそうになった。
!?
その瞬間叫んでいた。
「もうこれ以上は甘えられないっ! もうじき死ぬんだっ。もうそんなに長くないっ! ・・・、オレには時間がないっ・・・だからもうっ・・!」
吐き出した後、全身は小刻みに震えていたが、心臓の音はまた元のトクントクン・・・という静かな音へと変わっていた。
「 ・・・? 司、何言ってんの?」
秀也の司を見つめる目が何も理解出来ないと訴えていた。
一瞬だったが、とても静寂な時に包まれていた。
「もう、いつ死んでもおかしくない体なんだ。もう、ダメなんだよオレ。もう、これ以上生きられないんだ。・・・、怖いんだ。怖い・・・、アイツを残して逝くのが怖い。秀也、オレ、まだ死にたくないよ・・・。秀也ぁ、死にたく、ない・・」
司の信じがたい言葉に静かに立ち上がった秀也に、司は思わず抱きつくと、その胸の中で声を上げて泣いた。
***
「紀伊也」
!?
その声にハッとなると、司がさっきまで誰と一緒に居たのかを察してしまった。
そして、司が嘘をついた事もすぐに知ってしまった。
何か言いかけたが、次の秀也の恐ろしい程までに威圧的で、それでいて諭すかのような口調に思わず黙ってしまった。
「すぐ、戻って来て」




