第十五章・要求(五)
要求(五)
真っ暗な自分の部屋の灯りをつけた。
誰もいないがらんとした冷たい部屋だった。
やはり、居る訳ないか・・・
思わず苦笑したが、突然紀伊也のいない寂しさに襲われ、壁に寄り掛かると、両手で自分の体を力いっぱい抱き締めた。
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『死んでしまえば用はない』
そう言い放った智成の言葉が、重く圧し掛かっていた。
確かに封印されれば、タランチュラの事は全ての記憶から抹消され、ただ司と過ごした日々の記憶だけが残り、過去にバンドの仲間として付き合っていた司だけが、想い出として語られるであろう。
これからの人生の中で、それは智成の言うとおり、美しい想い出として残り、自分が生きていく中では何の支障も来たさない。
光月家は一条グループにとって資金の援助をしてくれる重要な家で、光月司は、そこのご令嬢で、幼い頃からの付き合いでバンドに誘われ、そのままジュリエットとしてメジャーデビューし、仲間としてやって来たが、恋人であった秀也との破局が原因で解散すると、兼ねてから抱えていた持病の心臓発作でこの世を去った。
ただそれだけの淡々とした記憶のみが残るのだ。
今まで命懸けで司を守り、指令に従い尽くした事も、司を愛した事も、全てがなかった事になるのだ。
あの日、司をかばって受けた右肩の傷も、和矢から聞かされた告知も、ロンドンで交わした告白も、全てが空白となってしまうのだ。
「それは・・・、そんな事、俺にはできないっ」
誰もいなくなった一条家の居間の壁にもたれ、紀伊也は一人考えていた。
今まで生きて来たのは全て司の為だ。それに、司がいたからこそ自分が生きていく事の価値を見出したのだ。
司がいなければ、自分は存在しない。
そうまで言い切れた。
それに、司を愛していたと悟った時の喜びは忘れ得るものではない。
今まで懸けて来た全てのものが、そこにあったのだと知った時、自分自身生きている悦びを初めて味わったのだ。
それは、何ものにも替え難いものだった。
例え、これから何不自由なく暮らす事ができたとしても、司のいない人生など自分にとっては何の意味も持たないだろう。
どんなに忌まわしい過去を背負っていたとしても、司さえいれば生きて行ける。
「司がいなければ意味がない。司を忘れる事なんてできない。忘れたくはない」
目の前に突きつけられた人生の岐路に立ち、生まれて初めて自分自身に悩んでいた。
気が付くと、二人で暮らしているマンションの下まで来ていた。
ふと上を見上げると、灯りがついている。
「司・・・!?」
一歩、行きかけて立ち止まると、自分の右手の平を見つめた。
司が指令を受けた時、瞬間にしてぶっていた。
あの時、怒っていた訳ではない。
何故か切ない程に苛立っていた。
どこにそれをぶつけていいのか分からず、考える間もなく手を上げていた。
司に何をどう説明していいのか分からない。
戻りかけて足が止まった。
窓が開いているのだろうか、切ないピアノの音色が聴こえて来る。
不思議な音色に誘われるまま、吸い寄せられるようにそっとドアを開けた。
「紀伊也、この曲は何に別れを告げているんだろうな」
弾き語りのように、不意に司が言った。
「恋人かな、友達かな・・・、それとも自分の人生になのかな・・・」
こちらを見もせず目を閉じたまま言う。 が、司の指は尚も流れるようにピアノの上を滑らせている。
「人生か、哀しみか。自分自身の心の中の何かに別れを告げているのかもしれないな」
「それ、紀伊也の事か?」
目を開けると、ちらっと視線を送る。
「ん・・・、そうかもな。 ・・・、司は? 何を想いながら弾いてるんだ?」
「オレ? そうだなぁ・・・フっ・・・」
フッと笑うと、視線を紀伊也から反らせた。
「別れたくなくて弾いているのかもしれない」
「別れの曲を?」
「ああ」
再び目を閉じると、柔らかな灯りを感じながら奏でていた。
しかしその音色は、先程の哀しい程に切ないものから、柔らかく優しいものへと変わっていた。
「紀伊也、今は何も言わないでこのままここに居てくれないか」
ピアノから立ち上がって近づくと、何か言いた気な紀伊也の口を制した。
その手を口から胸へと滑らせると、自分の頭を紀伊也の温かい胸につけた。
トクン、トクン・・・ という規則正しい胸の鼓動が聴こえた。
「まだ生きてるんだ。まだこうして一緒に居られるんだ、紀伊也と」
「司」
思わず紀伊也は司を強く抱き締めていた。
「紀伊也、オレ、もう少し生きられるよ。お前が居てくれたらまだ生きられる気がする。まだオレ何もしちゃいないんだ。これからやらなくちゃ。その為には今のお前が必要なんだ。だから、もう少しこのまま何も考えずに、オレの傍に居て」
「司、俺にもお前が必要なんだ。だから最期まで守らせてくれ、お前と共に・・」
「だから今は何も考えるな。もう少しオレのわがままに付き合え」
「・・・、わかった」
司の相変わらずな言い方に苦笑すると、抱き締めていた手を緩め、その今にも解けてなくなりそうな薄い唇に自分の唇を重ねると、強く吸い求めた。
今は何も考えずに、ただ司だけを愛した。
深夜半過ぎ、突然司は目が覚めると、体を起こした。
「どうした?」
裸の背中に手を当てながら紀伊也が訊く。
司には信じられなかった。
何の前触れもなく逝ってしまったのだ。
「司?」
体を起こしたまま、固まってしまったかのように動かない司に不安を覚え、紀伊也も体を起こすと、司の肩を優しく抱いて顔を覗き込んだ。
「司?」
紀伊也の声が聞こえていないのか、ただ一点だけを見つめたままだ。
本当に何の前触れもなかったのだろうか
しかし、先程交わした会話は・・・
「ばあやが・・・死んだ・・・」
「え?」
「ばあやは・・・知ってたんだ。自分が死んでしまう事を・・・。だからあんな事・・・」
杉乃の遠くを見つめる目が焼きついて離れない。
その目が不思議と近くに感じて取れたのは、自分と同じ所へ行くからだったのだろうか。
司に時間がない事も知っていた。
あの優しく温かい声が、いつもより更に強く感じて取れたのは、最期だったからだろうか。
初めて「死ぬ事」について語り合った相手は、間もなく死んでしまうと分かっていた杉乃だったのだ。
だからあんなにも無防備に、自分が「死んでしまう」事の恐怖を、口に出していたのだろうか。
「ばあや・・・っ」
見る間に涙が溢れ、止め処なく流れて行く。
その夜、一晩中司は声を上げて泣いていた。
翌朝になって、杉乃の訃報は亮太郎からの電話で知らされた。
今にも優しく語り掛けてくれるかのような微笑みを浮かばせ、杉乃は眠っていた。
温かかったその手は冷たくなっていたが、柔らかかった。
『お嬢様にはまだ時間がありますよ』
そう言ってくれた杉乃の言葉は本当のような気がした。
まだやれる時間は十分にある
昨夜、杉乃と交わした会話の一つ一つを思い出す。
だが思い出す度に、目の前で永遠の眠りについてしまった杉乃に、もう一度語ってもらいたい。目を開けてもう一度、自分をその柔らかく温かい手で慰めて欲しい。
そう思うと、後から後から溢れ出てくる涙に、杉乃の亡骸が霞んでいく。
「ばあや・・・、もう一度・・・、目を開けて・・・、ねえ、ばあや・・・」
杉乃の亡骸に泣き崩れる司に、皆顔をそむけると、静かに出て行った。
第十五章・終




