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第十五章・要求(五)

要求(五)


 真っ暗な自分の部屋の灯りをつけた。

誰もいないがらんとした冷たい部屋だった。


 やはり、居る訳ないか・・・


思わず苦笑したが、突然紀伊也のいない寂しさに襲われ、壁に寄り掛かると、両手で自分の体を力いっぱい抱き締めた。


 ******


『死んでしまえば用はない』

そう言い放った智成の言葉が、重く圧し掛かっていた。

 確かに封印されれば、タランチュラの事は全ての記憶から抹消され、ただ司と過ごした日々の記憶だけが残り、過去にバンドの仲間として付き合っていた司だけが、想い出として語られるであろう。

これからの人生の中で、それは智成の言うとおり、美しい想い出として残り、自分が生きていく中では何の支障も来たさない。

 光月家は一条グループにとって資金の援助をしてくれる重要な家で、光月司は、そこのご令嬢で、幼い頃からの付き合いでバンドに誘われ、そのままジュリエットとしてメジャーデビューし、仲間としてやって来たが、恋人であった秀也との破局が原因で解散すると、兼ねてから抱えていた持病の心臓発作でこの世を去った。

ただそれだけの淡々とした記憶のみが残るのだ。

 今まで命懸けで司を守り、指令に従い尽くした事も、司を愛した事も、全てがなかった事になるのだ。

あの日、司をかばって受けた右肩の傷も、和矢から聞かされた告知も、ロンドンで交わした告白も、全てが空白となってしまうのだ。

「それは・・・、そんな事、俺にはできないっ」

誰もいなくなった一条家の居間の壁にもたれ、紀伊也は一人考えていた。

 今まで生きて来たのは全て司の為だ。それに、司がいたからこそ自分が生きていく事の価値を見出したのだ。 

司がいなければ、自分は存在しない。

そうまで言い切れた。

 それに、司を愛していたと悟った時の喜びは忘れ得るものではない。

今まで懸けて来た全てのものが、そこにあったのだと知った時、自分自身生きているよろこびを初めて味わったのだ。

それは、何ものにも替え難いものだった。

例え、これから何不自由なく暮らす事ができたとしても、司のいない人生など自分にとっては何の意味も持たないだろう。

どんなに忌まわしい過去を背負っていたとしても、司さえいれば生きて行ける。

「司がいなければ意味がない。司を忘れる事なんてできない。忘れたくはない」

目の前に突きつけられた人生の岐路に立ち、生まれて初めて自分自身に悩んでいた。


 気が付くと、二人で暮らしているマンションの下まで来ていた。

ふと上を見上げると、灯りがついている。

「司・・・!?」

一歩、行きかけて立ち止まると、自分の右手の平を見つめた。

司が指令を受けた時、瞬間にしてぶっていた。

あの時、怒っていた訳ではない。

何故か切ない程に苛立っていた。

どこにそれをぶつけていいのか分からず、考える間もなく手を上げていた。

司に何をどう説明していいのか分からない。

戻りかけて足が止まった。

窓が開いているのだろうか、切ないピアノの音色が聴こえて来る。

不思議な音色に誘われるまま、吸い寄せられるようにそっとドアを開けた。


「紀伊也、この曲は何に別れを告げているんだろうな」

弾き語りのように、不意に司が言った。

「恋人かな、友達かな・・・、それとも自分の人生になのかな・・・」

こちらを見もせず目を閉じたまま言う。 が、司の指は尚も流れるようにピアノの上を滑らせている。

「人生か、哀しみか。自分自身の心の中の何かに別れを告げているのかもしれないな」

「それ、紀伊也の事か?」

目を開けると、ちらっと視線を送る。

「ん・・・、そうかもな。 ・・・、司は? 何を想いながら弾いてるんだ?」

「オレ? そうだなぁ・・・フっ・・・」

フッと笑うと、視線を紀伊也から反らせた。

「別れたくなくて弾いているのかもしれない」

「別れの曲を?」

「ああ」

再び目を閉じると、柔らかな灯りを感じながら奏でていた。

しかしその音色は、先程の哀しい程に切ないものから、柔らかく優しいものへと変わっていた。


「紀伊也、今は何も言わないでこのままここに居てくれないか」

ピアノから立ち上がって近づくと、何か言いた気な紀伊也の口を制した。

その手を口から胸へと滑らせると、自分の頭を紀伊也の温かい胸につけた。

 トクン、トクン・・・ という規則正しい胸の鼓動が聴こえた。

「まだ生きてるんだ。まだこうして一緒に居られるんだ、紀伊也と」

「司」

思わず紀伊也は司を強く抱き締めていた。

「紀伊也、オレ、もう少し生きられるよ。お前が居てくれたらまだ生きられる気がする。まだオレ何もしちゃいないんだ。これからやらなくちゃ。その為には今のお前が必要なんだ。だから、もう少しこのまま何も考えずに、オレの傍に居て」

「司、俺にもお前が必要なんだ。だから最期まで守らせてくれ、お前と共に・・」

「だから今は何も考えるな。もう少しオレのわがままに付き合え」

「・・・、わかった」

司の相変わらずな言い方に苦笑すると、抱き締めていた手を緩め、その今にも解けてなくなりそうな薄い唇に自分の唇を重ねると、強く吸い求めた。

今は何も考えずに、ただ司だけを愛した。


 深夜半過ぎ、突然司は目が覚めると、体を起こした。

「どうした?」

裸の背中に手を当てながら紀伊也が訊く。

司には信じられなかった。

何の前触れもなく逝ってしまったのだ。

「司?」

体を起こしたまま、固まってしまったかのように動かない司に不安を覚え、紀伊也も体を起こすと、司の肩を優しく抱いて顔を覗き込んだ。

「司?」

紀伊也の声が聞こえていないのか、ただ一点だけを見つめたままだ。


 本当に何の前触れもなかったのだろうか

 しかし、先程交わした会話は・・・


「ばあやが・・・死んだ・・・」

「え?」

「ばあやは・・・知ってたんだ。自分が死んでしまう事を・・・。だからあんな事・・・」

杉乃の遠くを見つめる目が焼きついて離れない。 

その目が不思議と近くに感じて取れたのは、自分と同じ所へ行くからだったのだろうか。

司に時間がない事も知っていた。

あの優しく温かい声が、いつもより更に強く感じて取れたのは、最期だったからだろうか。

初めて「死ぬ事」について語り合った相手は、間もなく死んでしまうと分かっていた杉乃だったのだ。

だからあんなにも無防備に、自分が「死んでしまう」事の恐怖を、口に出していたのだろうか。

「ばあや・・・っ」

見る間に涙が溢れ、止め処なく流れて行く。

 その夜、一晩中司は声を上げて泣いていた。

翌朝になって、杉乃の訃報は亮太郎からの電話で知らされた。

 今にも優しく語り掛けてくれるかのような微笑みを浮かばせ、杉乃は眠っていた。

温かかったその手は冷たくなっていたが、柔らかかった。


『お嬢様にはまだ時間がありますよ』


そう言ってくれた杉乃の言葉は本当のような気がした。


 まだやれる時間は十分にある


昨夜、杉乃と交わした会話の一つ一つを思い出す。

 だが思い出す度に、目の前で永遠の眠りについてしまった杉乃に、もう一度語ってもらいたい。目を開けてもう一度、自分をその柔らかく温かい手でなぐさめて欲しい。

そう思うと、後から後から溢れ出てくる涙に、杉乃の亡骸なきがらかすんでいく。

「ばあや・・・、もう一度・・・、目を開けて・・・、ねえ、ばあや・・・」

杉乃の亡骸に泣き崩れる司に、皆顔をそむけると、静かに出て行った。


第十五章・終

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