第十二章・解散(三)
解散(三)
ドアがノックされたが、返事もしない。
入って来た人物を確かめようともせず、ずっと窓の外を見たままだ。
あれから誰とも会おうとせず、毎日窓の外を見て過ごしていた。
だが、毎日誰かは訪ねに来ていた。
誰が訪ねに来るか、誰が病室に入って来るかなど、どうでもよかった。
「ハヤブサか・・・何の用だ? 指令でも下りたのか?」
無表情で無関心なその言い方に、思わず苦笑してしまった。
「いや・・・。それより、いつになったら和矢と呼んでくれるんだ? 司」
「そう呼ばれたければ、そのオーラを消して来い」
相変わらず窓の外を見たままだ。
和矢は傍らの椅子に腰掛けると、じっと司の横顔を見つめた。
形のいいすっと通った鼻、細く尖った顎、そして何より人を寄せ付けないその冷めた眼差し、以前とちっとも変わらない。
しかし、何かが違う。
司と別れてから7年が経つ。
表舞台に立つ司しか見てはいなかったが、変わったものはそれだけではない気がしていた。
何かが違っていた。
「聞いたよ、ジュリエットの事。相変わらず世間を騒がせる事が好きだな。・・・で、秀也とはどうなってんだ?」
一瞬ビクッとした司に和矢は、一冊の週刊誌を掲げるとページを捲った。
「彼女がいるみたいだなぁ、まぁこれを見る限りでは友達と言っても、そう取れるけど。なあ、お前らまだ付き合ってたんじゃなかったのかよ?」
「お前には関係ない」
こちらを向いた司は、口調こそは怒っているようだったが、その瞳は深い哀しみに満ちているようだった。
一瞬、和矢と目が合ったが、すぐに反らすと再び窓の外へ視線を移した。
もう放っておいて欲しい。
秀也の事は考えたくない。
何をそんなに執着しているのか解らない。
もう、終わった事なのだ。
そう思えばそれで済む事なのだ。
しかし司にはまだ、全てを受け入れるのは難しい事だった。
「無防備だな。なんだか司じゃないみたい」
全く警戒心がないのだ。こんな司は見たことがない。
何か違うと感じたのは、これだったのかもしれない。
隙だらけだった。
今襲われたら、ひとたまりもないだろう。
事件も終着し、警備も解かれていた。
それに、紀伊也も以前のように毎日顔を出さなくなっていた。
明日ニューヨークへ発つ為の準備に追われていたのだ。
行ってしまえば、しばらくは戻って来ないだろう。
司を頼むと言われても、和矢としても能力は半減したままだったし、表向きの仕事もある。
それに、7年前にあんな別れ方をしたままだっただけに、どう上手く接していいか分からず、戸惑ってもいた。
「自分の身は自分で守る」
「その気もないくせに」
司の投げ遣りな言い方に、すかさず応えた。
それが、精一杯の以前通りの振る舞い方だった。
「和矢」
不意に名前を呼ばれた。
懐かしい声だった。
あの日、最後にコーヒーを淹れてくれた時に呼ばれた声と同じだった。
「もういいよ。これ以上オレに構うな。今までいた元の世界へ戻ってくれ」
冷めた眼差しから一転して、懇願するような眼差しに変わっている。
以前の司なら冷たく突き放すように言うか、あからさまに迷惑そうに言っただろう。
思わず戸惑った。
司じゃない。
和矢はその眼差しに耐え切れず、一時部屋を出て行こうと扉を開け、入口に立っていた人物とぶつかりそうになって一歩引いたが、その顔を見て息を呑むと、司に助けを求めるかのように振り返った。
「誰?」
和矢が影になって見えない。
ふっと和矢が体をずらすと、並木が顔を出した。
事務所へ問い合わせをすると、まだ面会拒絶という事らしいが、直接雅に問い合わせをすると、面会の許可が下りたのだ。
雅も並木なら少しは司の力になれるだろうと、快く許可を出した。
並木も素っ気無い司の声に、以前と変わらぬものを感じて、少し安心したように近づいて行く。
が、和矢は固唾を呑んで並木を追って、少し離れた所で二人を見守った。
司がずっと呼び続けた亮が現れたと思った。
彼が俳優の並木である事は一目見て分かったが、写真やブラウン管で見るより、ずっと亮に似ている。
甦ったと言っても過言ではない。
そう錯覚を起こさせる程だった。
だから、何度追いかけても、追いつけなかったのではないか。
そう思った。
「本当に生きて、無事で良かった。もう会えないんじゃないかって思った」
あの事件の直後、すぐにでも病院へ駆け付けたかったが、事務所のスタッフに押さえ込まれ、ずっと監視させられていた。
光月家の許可した者以外の面会は拒否すると言った、異例な態度だっただけに、病院へ行けばまたスキャンダルだ。
いくら交際していると報じられていても、あくまでそれは憶測に過ぎず、事実無根なのだ。
メンバーも一切の取材を拒否しており、事務所側も病院側も全く同じ内容を公表するだけで、他には何も分からなかった。
ただ、司が生きている事だけしか、分からなかった。
あの、12月21日に意識を取り戻したと報じられた時は、奇跡が起こったのではないかと思ったくらいだ。
実際に見た訳ではないが、大量の出血があり、しかも司の血は特殊だったという。
発表がなかなかなかった事から、死亡説まで出たくらいだった。
ジュリエットの活動休止宣言には驚いたが、メンバーが各々違う活動を始めるという話を聞き、司の容態も良いのではないかと、雅に電話を入れたのだった。
実際、司の顔を見るまでは不安だったが、以前と変わらず、司がそこに居るのを確認した並木には何か込み上げるものがあった。
っ!?
思わず差し出した手に、司が縋りつくように両手で握り締め、顔を埋めている。
「何で・・・? 何で、連れて行ってくれなかったんだ・・・っ」
並木の手が濡れた。
「司?」
「兄ちゃん、約束したろ? 先に逝った時には待っててくれるって。なのに、何で置いて逝っちゃうんだよ・・・っ」
また錯覚を起こしていた。
しかし並木には、今度の司の言葉に戸惑いを隠せない。
『死にたがっている』
そう思ったのだ。
「連れて行ってくれよぉ・・・、もういいんだ ・・・、もういい・・。兄ちゃんの傍で眠りたい・・」
「司・・・、傍にいるよ。傍にいるから少し眠るんだ」
そう優しく肩を抱き寄せながら言うと司はゆっくり顔を上げ、懇願するかのように並木を見上げた。
「本当? ずっと、いてくれる?」
並木が頷いた事に安心したように目を閉じると、抱き寄せられたまま深い眠りに落ちて行った。
司を横たわせる並木を、和矢は茫然と見つめていた。
自分は一体何を見たのだろう、亮の幻でも見ているのだろうか。
過去の映像と重なる。
高校に入学して間もなく、風邪をひいて熱にうなされた司の元に亮が来た時も、同じように『傍にいるから眠りなさい』そう言って、頭を抱き寄せて眠らせていた。
「亮? ・・・まさか、な・・・」
和矢の呟きに並木が振り返る。
首を傾げた並木に、やはり違うとホッと胸を撫で下ろした。
本当に亮なら、10歳も年下の和矢に『亮』と呼び捨てにされ、半ばムッとしたように振り返り、その後、苦笑しながらため息をつく筈だからだ。
「そうだよな、生きてるワケがない」
「君も知ってるんだ、司のお兄さんの事」
「え、・・まあ・・」
司を愛しむように見つめるその瞳に、再び亮を思い起こさせ、一瞬戸惑った。
「知っていたら教えて欲しい、お兄さんが亡くなった時の事。何で、司はこんなに死にたがっているんだ?」
死にたがっている。
並木の言葉に和矢は思わず息を呑んだ。
今までと違って見えた何かが、はっきり分かった気がした。
それは認めたくない事だった。
あの時、紀伊也から司が亮を呼んでいると聞かされた時にもそうだったが、司が自ら死を選ぶなど、到底考えられるべきものではなかった。
それに、それは考えてはいけない事なのだ。
しかも、亮を追いかけようとしたのは今回が初めてではない。
それは和矢だけが、知るところだった。
言ってはいけないと解っていても、亮にだけは真実を伝えるべきだろう。
そう思うと、思わずその重たい口を開いてしまっていた。
*****
亮の葬儀から二週間後、何の音沙汰もなかった司が突然登校して来た。
皆のあいさつも完全に無視し、教室に入って来るなり自分の席に着くと、壁に寄り掛かって前を向いて黙って座った。
-少しやつれたな
周りの誰が見ても分かる程だった。
担任の松井はちらっと司を見ただけで、普段と変わらず教壇に立っていた。
松井も、あの葬儀で見せた司の変わり果てた様子には驚いていた。
斎場から出て来た時の司は、文字通り茫然自失で、亮の遺影を持つ足取りは重く、今にも倒れてしまいそうだったのだ。
授業が始まっても、ノートも教科書も机の上に出さず、朝来た時と同じ状態だった。
教師も呆れていたが、松井から何か言われていたのだろう、何も言わず授業を続けていた。
昼休みになっても、食事さえ取らず、相変わらず壁に寄り掛かったまま、前を向いて座っていた。
さすがに和矢も放っておく訳には行かず、傍に寄って話かけたが、返事はなく、視線さえもこちらに向けようとしなかった。
そんな状態が3日続いた。
が、3日目の昼休み、突然立ち上がったかと思えば、教室を出て行ってしまった。
クラス中の皆が心配していた。
出て行った直後、全員が和矢を見る。
入学当時から二人は仲が良かった。
皆と違う経歴の持ち主の司を、特異な目で最初は見ていたものの、すぐにそんな事にこだわる様子もなく、打ち解けて二人を中心に楽しい生活を送っていた。
司が、バンドをやっているという事もあり、皆司に興味を持ったのだ。
毎日何かと騒がしい二人だったが、突然に抜け殻のようになってしまった司に、皆が心配するのも無理はなかったが、事情が事情なだけにそっとしておくしかなかった。
しばらくして突然、ピアノの音が聴こえて来た。
ボリュームを最大に、誰かがレコードでもかけているかのように激しい旋律だ。
とても素人が弾いているとは思えない。
「 ったく、何だってこんなの聴きながら、メシ食わなきゃなんねぇんだよ。誰か万平にうるさいって言って来い」
誰かが言った。
廊下の窓から別棟の音楽室を見る。
廊下の窓には、階下の上級生達も、音楽室を見上げながらざわついていた。
しかし、瞬間和矢は教室を飛び出すと、音楽室に走った。クラスの何人かも後に続いた。
扉は中から鍵が掛けられており、開かないが、ピアノの音色はレコードではない事がすぐに分かった。
「誰か、合鍵もらって来いっ」
和矢が怒鳴ると、慌てて誰かが職員室に走った。
少しして、担任の松井と音楽教師の万平が慌てて走って来る。
「どうしたっ!? 何かあったのかっ!?」
「いや、何でもないよ。先生、悪いけど静かにしてくんない? ・・・、司だよ。司が弾いてるんだ」
「え?」
和矢の言葉に全員が息を呑んで、閉じられた扉を見つめた。
和矢は万平から鍵を受け取ると、そっと開け、中へ入った。
音楽室の中は、さながらコンサートホールのようにピアノの音色が響いている。
激しくも哀しい音色だ。
思わず呟いた。
「ショパン・・・幻想即興曲」
皆が入って来た事に気にする事もなく、一心不乱に指を走らせている。
司の目は真剣だったが、どこか哀愁漂い、何か思い詰めてもいるようだった。
ふと音色が止み、指がピアノから離れた。
ピアノの扉を閉じながらゆっくり立ち上がった司は、こちらへ歩いて来るが、誰も見ず、真っ直ぐに教室の扉を目指して歩いて来た。
「司」
和矢が声を掛けても、視線を移そうともしない。
皆が一歩下がり、道を開けると、その間を黙って通り抜け、奥へと歩いて行く。が、角を曲がった所で突然走り出した。
ハッとなった和矢は「皆に来るな」と言い残し、司を追いかけた。
案の定、鍵のかけられた屋上へと続く扉は壊され、開け放たれている。
あと一歩遅かったら、というところで、フェンスに体を折り曲げた司を押さえ込み、引き摺り下ろしたのだ。
「何、バカな事やってんだっ!」
「約束したんだ、必ず後から逝くって、だから・・・」
「だからって、死んでいい訳がないっ!」
「他にどうすればいいんだよっ・・・兄ちゃんのいない世界なんてあり得ない・・・っ・・」
司はコンクリートの床に両拳を叩きつけた。
「お前が死ねばどうなるか分かってんのかっ、俺だって紀伊也だって死ぬんだぞっ。紀伊也だってお前の為に撃たれたんだっ、そのあいつを殺す気かっ!?」
和矢の問いかけに応えようともせず、ギュッと拳を握り締めていた。
それから3日学校を休み、4日目に登校して来た時には、更にやつれ、顔色も悪く、立っているのもやっとの状態だった。
弘美を問いただすと、睡眠薬を大量に飲んでいたというのだ。
******
「和矢、今の話は本当かっ!?」
突然、背後から声がして振り向くと、紀伊也が血相を変えて立っていた。
つかつかと歩み寄り、和矢の肩をがっと掴んで食い入るように見ている。
「ああ、本当だ」
和矢は紀伊也の手を振り解くと司を見つめた。
「それだけじゃない。クロロフォルムも手に入れていたし、青酸カリもやった。でもあいつに毒なんか通用しない。それに発見が早かったんだ。気になって俺も毎日あいつを張っていたからな、それに・・・」
司に歩み寄ると、その右手を掴み上げ、ブレスレットを指でなぞった。
「これが影になって見えないが、ここも切ったんだ。かなり深くやったんだが、何とか致命傷にはならなかったよ。けど、これが邪魔してさすがのボンも痕を消す事ができなかった」
そう言って、再び手を布団の中にしまった。
茫然と聞いていた紀伊也の顔色は青ざめ、息を呑んでいる。
「そ、んな事、知らなかった。何で言わなかった!? 何でボンも何も言わないっ!?」
「言えないよ、そんな事。それに、ボンだって誰も何も知らない・・・そんな事」
和矢はその時既に、全てを封印したのだ。
司が亮の後を追って自殺を図った事など、誰にも知られたくなかった。
出来れば、自分も永久に封印して欲しいくらいだった。
「それに・・・、俺だって封印されていた・・・」
和矢と紀伊也の間に、しばし沈黙が流れた。
幼い頃から互いに自分の命を懸けて付き合って来た、言わば同志だ。
亮を失った事のショックがそこまで大きかったとは、とても信じられない。
二人には、司に秘められた想いが解らないでいた。
「何で、そんな事したの・・・?」
ふと呟いた声に、二人は並木の存在を忘れていた事にハッとなった。
「何で?」
並木の問いかけに、次の瞬間、紀伊也が右手をかざすと、並木はがっくり力が抜け、司の横にうつ伏せた。
「どうするんだ、紀伊也」
司と並木を交互に見て考えていた紀伊也は
「並木に司を任せようと思う」
と言った。
驚いたのは和矢だった。
並木を見た時、何かとても不安めいた嫌な予感が走ったのだ。
司には会わせてはいけない。
そう思った。
しかし、どんな時でも冷静に判断する紀伊也だ。 事、司に関して言うなら尚更だろう。その紀伊也が言うのだ。
が、戸惑いは隠せない。
「大丈夫なのか?」
思わず訊いてしまう。
紀伊也も前回の件で並木が、司を亮の死と向き合わせた事には、何か並木には不思議なものを感じていたし、彼は至って従順な性格の持ち主だということも分かっている。
それに雅の信頼もある。紀伊也自身、並木に対して悪い気などこれっぽっちも思っていなかった。
「彼なら心配ないと思う。それに司は今、死にたがっているんだろう? 並木を亮さんと錯覚するなら尚の事都合がいい。もう死ぬなんて考えないだろう。目の前に居るんだから。並木に亮さんのフリをしてもらって、生きる勇気を沸かせてもらえばいいじゃないか。 そうすれば、元の司に戻ってくれるかもしれない」
なる程、紀伊也の言う通りかもしれない。
並木の事はよく分からないが、紀伊也がそう言うのなら心配は要らないだろう。
和矢は納得したが、
「何処まで封印する気だ?」
先程、全てを聞かれた事を思い出す。
「そうだな・・・、封印するか、全て」
紀伊也は、再び並木に向かって右手をかざすと気を発した。
しばらくして二人を目覚めさせた紀伊也は、何事もなかったかのように司の傍らに立った。
司は相変わらず虚ろな目をしている。
「司、明日発つよ。しばらくは戻って来れないけど、何かあったらすぐ呼んでくれ。それに和矢もいるし、並木君だっている。もう死のうなんて思わないでくれよ」
「そう・・・気をつけて・・・」
まるで関心のない言い方だ。が、ふと紀伊也を見上げた目が不安気だった。
「心配するな、今のお前には並木君が居るだろ」
ちらっと並木に視線を送り、和矢に頷いた。
並木は少し照れたようだったが、真剣な眼差しで司を見ていた。
『ずっと、傍に居て欲しい』
そう言われた時、並木自身そう思ったのだ。




