60話 古民家の一夜
「明後日の朝、山梨県へ向かってくれ」
5月1日の夜。
長崎県で予言を聞いた一樹は、蒼依に連絡を取った。
疫病をもたらす妖怪に対応するに際して、蒼依と沙羅に合流を頼んだのだ。
学校は5月3日からゴールデンウィークに入り、休み明けまで役目が長引いたとしても、理事長が同好会の活動扱いで公欠扱いにしてくれる。
理事長はA級陰陽師の1人で活動に理解があり、高校も私立だ。
陰陽同好会の設立は、一樹にとって想定外の価値があった。
「朝から移動して、夕方前までに合流してくれれば大丈夫だ」
一樹が蒼依と沙羅を呼んだのは、蒼依がB級上位の力を持つ山姫で、沙羅はB級中位で空も飛べるからだ。
一樹は陰陽師だが、式神使いの人間で、接近戦に持ち込まれると弱い。以前、C級上位だった水仙に妖糸で引き摺られ、泥まみれになった事もある。
A級下位の牛鬼と、B級中位の絡新婦は影に控えているが、蒼依と沙羅も呼べば戦力が上がる。自身の安全性が高まるのだから、近接戦で自分よりも強い2人について、一樹が呼ばない理由は特に無い。
『八咫烏達は、連れて行きますか』
蒼依に問われた一樹は、少し考えた後、連れて行かない事にした。
「山狩りは、A級3位の豊川様が、沢山の狐を使って手伝って下さるそうだ。共同作戦は難しいから、今回は連れて行かない。長くても5日ほどだ」
『分かりました。5日ほど留守にすると、伝えておきます』
卵から孵化された八咫烏達は、一樹と共に育てた蒼依を母親と認識している。
蒼依が式神同士で気を介して「5日留守にするから遊んでいて」と伝えたならば、5日を理解した上で、言われたとおり遊び回る。
鬼だけではなく、県内の子供達と遊んだりもするし、ご老人宅で寛いだりもしているらしいので、遊び先には困らないだろう。
蒼依に依頼した一樹は、翌朝には長崎県から本州へと舞い戻った。
一樹が赴いたのは、山梨県南巨摩郡身延町。
市ではなく町である時点で、人口が少ない事は察せられた。
「田舎だなぁ」
日本では地方自治法によって、一般的に「市」へと昇格できる人口は5万人以上とされる。
市に昇格すれば、地方交付税が増えて議員給与も上がるため、人口5万人以上で市に昇格しない町は、基本的には存在しない。
一度「市」に昇格すれば、人口が5万人を割り込んでも、「町」に戻す義務は無い。戻す事自体は可能であり、財政破綻した北海道夕張市などでは検討もされたが、今のところ日本では市から町に戻った前例は無い。
従って身延町は、かつて1度も人口5万人に届いた事が無いわけだ。
現在の人口は、1万人を割り込んでいる。
居住地の平均的な人口密度から考えれば、紛れもなく田舎である。
幸いにしてホテルなどの宿泊場所はあって、一樹は陰陽師協会が手配した古民家に赴いた。
「どうして、古民家なんだ」
一軒家の古民家には、広い居間に囲炉裏があって、風呂は檜風呂だ。
2階のベッドルームは2部屋で、ベッドと布団があり、最大8名が泊まれる。
そんな古民家の囲炉裏では、A級3位の気狐である『豊川りん』が、串に刺したイワナを炙っていた。
到着早々に困惑する一樹を他所に、豊川はイワナを指差して告げる。
「賀茂の分も、焼いています」
「……ありがとうございます」
数百年に渡って、人間を守ってきた優しき気狐の上役に勧められて、他に言い様があるだろうか。
一樹は宛てがわれた寝室に荷物を置いた後、豊川と囲炉裏を囲んだ。
パチパチと、薪が燃える音が響く。
囲炉裏部屋はとても広くて、30畳はある。
廊下との仕切りは襖であり、廊下と外の仕切りは引き戸で、見た目からも換気は充分だ。
囲炉裏の真上には、燃え難い火棚が取り付けられており、煙を逃がす換気窓もあって、煙が充満する事も無い。
屋根裏には煙が行くので、虫除けやネズミ対策にもなる。
「火棚は熱が反射して、家の中が温まります。日本家屋は寒いですが、囲炉裏があれば温かいです」
流石は昔の狐だと感心しつつ、一樹は小刀で捌かれ、火で炙られていくイワナ達を眺めた。
囲炉裏の上では、お茶を煎れるためのお湯が沸かされている。調理場を使っておにぎりも握られており、豚汁も作られていた。
「すみません。料理は出来なくて」
「構いませんよ。賀茂は、協会に要請されて、妖怪を調伏しに来たのです。料理を作らせたいのなら、料理人を派遣しました」
豊川の指摘に、一樹は協会本部の内部留保が、1兆円を超える事を思い出した。都道府県支部とは別会計であり、本部の予算は常任理事会で採決されれば、基本的には通る。
但し、お金の使い道は、完全に自由自在と言う訳でもない。
実質的にはA級だけで本部の予算を決められる以上、A級の私的流用を疑われる行為は自粛すべきであり、外部に説明できない支出には制限がある。
「今回の依頼は、予知に基づく事前対処です。予知を説明できませんから、本部の予算からは、前払いの着手金を出せません」
今回の報酬について、本部が出せない事を一樹は事前に聞いていた。
理由については首を傾げたが、宇賀の正体を知って理解した。『A級2位の宇賀が人魚なので、予知できました』など、言えるわけが無い。
報酬は、仕事が終わってからとなる。
「疫病をもたらす妖怪は、身延山を中心に増えすぎた虎狼狸です。ですが、この地には、槐の邪神が立ち塞がり、倒しても復活するために、虎狼狸の駆除を行えません」
倒さなければならない妖怪は、2種類居る。
1つは、疫病をもたらす虎狼狸。
もう1つは、その生息地にいる槐の邪神。
槐の邪神は、財宝を溜め込んでいるために、それが討伐者の報酬となる。
虎狼狸は、病気の『コレラ』を齎す妖怪だ。
江戸時代、黒船来航と共にコレラ菌が日本全国へと広がって、年間の死者数は10万人を超える事もあった。
日本で初めて流行した病であり、当初は原因不明だった。
だがコレラに感染した者の家から、イタチのような生き物が逃げていったという目撃例が立て続いた事から、虎狼狸という「虎のような、狼のような、狸のような妖怪」が犯人だとされた。
現代では、虎狼狸はコレラを発病しない保菌者、無症状病原体保有者だと判明している。妖怪の虎狼狸が人間に近付くと、妖気で人間を弱らせ、瞬く間にコレラを感染させてしまうのだ。
妖気で感染させる虎狼狸のコレラは、一般人の気では耐えられないため、疫病の大流行が起こり得る。
虎狼狸が居ると報告を受けたなら、早期に駆除しなければならない。
だが現地には、槐の邪神という他の妖怪も居た。
槐の邪神は『太平百物語』(1732年)に記されており、不動明王の童子が退治した記録もある。
槐の邪神を退治した不動明王の童子とは、不動明王の子供ではない。
童子とは、子供を指す他に、仏・菩薩・明王などの眷属に付ける名でもあって、槐の邪神と戦ったのは不動明王の眷属である八大金剛童子だ。
それらは不動明王の四智(金剛智、灌頂智、蓮華智、羯磨智)と、四波羅蜜(金剛波羅蜜、宝波羅蜜、法波羅蜜、業波羅蜜)を具現化した八尊だとされる。
修験道では、除魔、後世、慈悲、悪除、剣光、香精、検増、虚空。
密教では、慧光、慧喜、阿耨達、持徳、烏俱婆伽、清浄比丘、矜羯羅、制吒迦。
慧光らは、中国の聖無動尊にも記される。
槐の邪神を倒した八尊が過剰戦力だったのかは分からないが、B級以下の陰陽師に「行って来い」とは言えない。
一樹は式神使いであり、自分は傷付かずに相手の戦力を把握できる。そして、いざとなれば大鳩で逃げられる。
また豊川は気狐であり、山での逃げ足は最速だ。
両者が送り込まれた由縁である。
「何百年も人間と妖怪を襲って財宝を集めていれば、人界では容易に得られない霊物なども蓄えているかもしれません。今回の報酬は、賀茂とわたしが働きに応じて、得られた財宝を分けます。足りなければ、後日調整します」
妖怪からの獲得品は、民法192条に準じる扱いで、獲得者の物となる。
妖怪が持っていた物品の被害者、又は遺失者が居る場合は、民法193条に準じる扱いで、奪われた時から2年間の回復請求権が有る。
但し、陰陽師などが妖怪を調伏して獲得した場合、民法194条に準じる扱いで、妖怪調伏に要した対価を支払わなければ、物品の占有権を回復できない。
すなわち妖怪からの獲得品は、手に入れた陰陽師の物となる。
それで足りなければ、虎狼狸の死体さえ確認出来れば、陰陽師協会が後払いで清算できる。
「分かりました。よろしくお願いします」
報酬に同意した一樹は、豊川から差し出された料理を口にした。
ワタが抜かれたイワナの塩焼きに齧り付き、おにぎりを食べ、豚汁を啜る。素朴だが、古民家という場と相俟って、美味しく感じられる。
「昔は、こんな風に暮らしていたのですね」
ふと尋ねた一樹に対し、豊川は小さく頷いた。
「わたしは昔、人間と暮らしていた事があります。ですから、真っ当に生きて困っているなら、人間を助けてあげない事もありません……」
それっきり豊川は黙り、2人きりの食卓には、薪の燃える音が響き続けた。


























