275話 千幸と庭の神【本日第7巻発売】
修学旅行の最終日。
近場のホテルでケソラプを誘い込んだ一樹達は、そのまま宿泊した。
ケソラプの使役後に宿をチェックアウトして、修学旅行用のホテルにチェックインすることは、深夜という時間的に不可能だったのだ。
「あっちの食事、食べ損ねたな」
宿の朝食は、一択だった。
日替わりパン3種、サラダ、ゆで卵、カップスープ、ドリンクで、値段は900円。
前日に食べたホテルのビュッフェを思い返すと、未練が残る。
「奥のほうが空いていますね」
「それなら、奥に座るか」
使い捨ての弁当容器に乗った朝食を受け取って、一樹と沙羅は食堂の奥に移動した。
テーブルに朝食を置き、市販らしきコーンスープとコーヒーの粉末をカップに注いでいく。
「もう少し高くて良いから、何とかならないのか」
弁当容器に乗っている3種類のパンは、一番大きいのが推定で1個数十円のクロワッサンだ。
もちろん宿で焼いたのではなく、前日に仕入れたものであろう。
パンと同じ容器には、サラダも乗っている。サラダと称しつつも一種類で、食べると口内の水分を奪われそうなサニーレタスだった。
それを見た一樹は、絵馬の世界の鹿野で、牛太郎に草を食ませていたことを思い出した。
半透明なプラスチック製のカップには、ゆで卵が1個入っていた。
ほかには、パン用のバターとジャム、ゆで卵用の醤油、コーヒー用のシロップが付いている。
それが朝食のすべてであり、一樹と沙羅にとっては、修学旅行で最後の朝食となる。
「最近の北海道って、観光需要で物価が高いですよね」
擁護した沙羅のほうは、上機嫌だった。
機嫌が良い理由は、朝食とは無関係だろう。
何しろメニューは、一切褒めていない。
「これは駄目だな」
「チェックアウトして、札幌市内で朝食を摂りますか」
「それだと、今から2時間以上は掛かる」
現在地は、石狩川を遡上した岩見沢市の端だ。
出発の準備を整えて、タクシーで札幌市内の食事処まで移動すると、相応に時間が掛かる。
一樹は従業員の姿が見えないことを確認して、塗り潰しの絵馬・大根を顕現させた。
「庭の神、ミンタラコロカムイ。ミニトマトを出してくれ」
一樹は新鮮なミニトマトを想像して、絵馬を左右に振った。
すると艶のある真っ赤なミニトマトが10個、絵馬の表面からコロコロと落ちてきた。
それらは絵馬に描かれた鹿野で、庭の神ミンタラコロカムイが育てた、作りたての作物だ。
新鮮なミニトマトは、しなびかけたサニーレタスの上で、キラキラと輝きを放っている。
「よし、良くやった」
「昨日使役したばかりなのに、もう使えるのですか」
沙羅は驚いたが、一樹には上手く使える確信があった。
「野菜を思い描くことに関しては、自信がある」
一樹には絵馬の世界で、50年ほど農業に従事した体感がある。
鹿野の地を思い描き、庭の神に土地を任せることは、一樹にとっては造作もない。
目の前に出現したミニトマトは、それを行った結果だった。
一樹が箸でミニトマトを摘まんで口に運ぶと、果皮がぷちりと弾けて、弾むような食感と共に、鮮やかな酸味が舌に広がった。
瑞々しい果汁が溢れ出して、口内を満たしていった。
「おお、良いじゃないか」
強い甘みが押し寄せてきて、濃縮された夏の陽射しを閉じ込めたような旨さをもたらした。
無言で味わった一樹は、ミニトマトが乗った容器を沙羅のほうに押し出した。
「かなり美味かった。沙羅も食べてみろ」
「それでは頂きますね」
勧められた沙羅は、箸でミニトマトの一つを摘まむ。
市販のサラダに添えられるミニトマトと比べ、粒には張りと弾力があった。
それを口にした沙羅の口内にも、わずかな酸味と強い甘さが染み込んでいった。
「鹿野は、水と土壌が良いのでしょうか」
「水に関しては、間違いなく良いな」
絵馬の世界に描かれる鹿野は、江戸時代の山間部にあった上流域だ。
人が住んでいないので生活排水は無くて、江戸初期という時代的に大気の汚染も無い。
森林が自然の濾過をしていたので、水は清浄で、農業用水として申し分なかった。
水に関しては、現代よりも優れている。
「土壌は、どうかな。汚染のマイナスと、化学肥料のプラスで、差し引きだが」
ミニトマトの一つを口に含みながら、一樹は土壌について考える。
現代の農地は、化学肥料によって、土壌の栄養状態が向上している。
絵馬の世界は一樹が描いており、自分が体験していない土壌を描くことは難しい。
「市販のミニトマトよりも、ずっと美味しいと思います。このミニトマトは、庭の神が鹿野の地を使って、育てているのですよね?」
「俺は絵馬に、体験した50年分の鹿野を描ける。そこで育てて、出してくれている感じかな」
「それなら土壌を改良できそうですね」
「改良って、どういうことだ」
一樹はミニトマトを頬張りながら、首を傾げた。
「50年という時間があって、どんな植物でも出せるのなら、輪作ができます」
「輪作は、中学の社会科で習ったな。農業革命だったか」
輪作とは、数種類の異なる作物を一定の順序で、複数年にわたり同じ畑で栽培する手法だ。
ノーフォーク農法などが有名で、大麦、牧草のクローバー、小麦、飼料用のカブによる四圃輪栽式農法は、イギリスの産業革命を支えた農業革命として知られる。
「輪作をすれば、土壌の栄養状態が改善して、保水力も向上して、味も良くなりますよ……」
マメ科植物のクローバーは、根に根粒菌が共生して、空気中の窒素を土壌に供給する。収穫後に土にすき込むことで、天然の窒素肥料となるのだ。
また緑肥植物であるライムギ、蕎麦、ひまわりなどは、有機物を土壌に供給する。それらの植物を組み合わせれば、化学肥料を用いなくても、土壌の栄養状態を改善できる。
スギナ、ヨモギ、イタドリ、フキ、ワラビ、ゼンマイなどを堆肥に使えば、ミネラルバランスが改善されることで、味の向上も期待できる。
「はあ、なるほど。庭の神に任せてみるか」
「結果が楽しみですね」
一樹が丸投げを宣言すると、沙羅が相槌を打った。
「ところで一樹さん。ケソラプには、千幸と名付けましたよね」
「ああ、幸運の鳥だそうだから、千の幸と書いて、千幸にした」
昨夜、ケソラプを使役した一樹は、その時に命名した。
絡新婦の妖怪に対して、長く清らかに在るとされる水仙と名付けたように、ケソラプには幸運をもたらしてくれることを期待して、千幸と名付けている。
一樹と沙羅に怯えていた千幸が、不幸そうに見えたことも、命名理由の一端ではある。
「それがどうしたんだ」
「庭の神ミンタラコロカムイには、名付けないのですか?」
「ああ、こっちは使役したわけじゃなくて、絵馬に根付いただけだからな」
一樹が絵馬を振ると、今度は大粒のブルーベリーが、ゴロゴロと落ちてきた。
なお使役とは、自分以外に仕事をさせることである。
沙羅は言及せず、いつも通り一樹を全肯定して、静かに微笑んだ。
こうして一樹達の修学旅行は、終わりを迎えた。


























