253話 海童
薄曇りの空が港を覆い、湿った潮風が吹き抜ける6月2度目の土曜日。
一樹と沙羅は、和歌山県の新宮港に立っていた。
新宮港は、紀伊半島の南部、和歌山県と三重県との県境部に位置している。
東京都の4.5倍以上という紀伊半島の大部分は、妖怪が支配する領域だ。海沿いの地域だけ、人間の領域となっている。
「新宮市の人口は少ないのに、港は物凄く広くて、大きいな」
一樹が下調べしたところ、新宮市の人口は『市』の要件を満たす5万人の半数ほどだった。
日本にある市の平均人口と比べれば、人口は少ないと言える。
それにもかかわらず、港は非常に大きくて立派だった。
首を傾げる一樹に、同行した沙羅が補足する。
「新宮港は、昔は捕鯨基地でした。江戸時代には、江戸や大坂に炭や木材を運ぶ新宮廻船もあり、長く栄えてきました」
「江戸や大坂の炭や木材を支えたのか」
廻船とは、港と港の間を往来して旅客や貨物を運ぶ船のことだ。
こんな田舎に、どうして巨大な港があるのかと不思議に思ったが、膨大な木という資源があり、炭や木材を得られるのであれば納得できる。
勝手に生えてくれて、伐採して船に積んで運べば儲けられたのならば、人が集まっただろう。
江戸時代に港が大きくなったのは、当然と言える。
「今も紀南地方唯一の外貿港湾として、三重県や奈良県も含めた地域の拠点港になっています」
「なるほどな。炭や木材の需要が落ちても、上手く切り替えられたわけか」
奈良県民の沙羅に解説された一樹は、腑に落ちた様子で頷いた。
新宮港沖には、いくつもの漁船や貨物船が揺れており、岸壁には係留柱がズラリと並ぶ。
海面には油が虹色に輝き、小波が規則正しく打ち寄せている。
港湾の奥に目をやると、背の低いクレーンがいくつかそびえ立ち、動きを止めたコンテナの山が薄暗い影を落としている。
一樹の傍には、幽霊巡視船の一部である7メートル型高速警備救難艇も停泊していた。
港には沢山の船が停泊し、人々が行き交い、クレーンが規則正しく動いている。
そんな人々の動きに、後輩である九鬼隆士の姿が混ざっているのが見えた。
「ああ、来たな」
隆士は、自信を欠いた表情を浮かべながら、台車を押してゆっくりと近づいてくる。
台車には、二つの物が乗っている。
一つは箱に入った大量の日本酒で、もう一つは底の抜けたひしゃくだ。
隆士の歩みは重そうだったが、それでも足取りを止めることなく、一樹の前まで進んできた。
「賀茂先輩、五鬼童先輩、今日はありがとうございます」
一樹と沙羅の前で足を止めた隆士が、深く頭を下げた。
九鬼の分家が抱える長年の問題からか、隆士の言葉は硬い。
「問題ない。これまでに179人の後輩に式神を持たせた。それが180人になるだけだ」
大したことではないと、一樹は軽く流した。
これまで一樹は、呪力順で上の7人を除く後輩達に、先輩として指導する機会を作った。
また上位7人のうち凪紗は、鬼神にして天狗から昇神した刑部姫の指導を受ける機会を得た。九条茉莉花とお付きの2人も、妖狐として九条本家を上回る香苗から、指導の機会を得ている。
隆士に式神を持たせることは、後輩への指導実績が一つ増えるだけだ。
「俺の場合、使役の準備が必要という話ですが」
隆士は、自身が運んできた日本酒の山に視線を投げた。
それらは今回の使役に際して、前段階として必要な物だった。
「海鼠と化鼠の時は、神気が宿った角材を持たせた。そんなに気にするなら、一人で積み込め」
「分かりました」
隆士は高速警備救難艇に、大量の日本酒を積み始めた。
日本酒は1.8リットルの一升瓶が20本もあって、なかなかの量だ。それは高校生の一樹達が飲むわけではなく、三重県に由来する妖怪に飲ませるために持ってきた。
酒を飲んで酔う伝承がある妖怪は、少なからず存在する。
「酒を手配した親は、酒呑童子や八岐大蛇でも倒すのかと言わなかったか」
「……言っていました。お前は、何を倒しに行くのだと」
「酒飲みの妖怪には、有名処が多いからな」
工夫しなければ倒せない妖怪は、当然ながら強い。
もっとも今回の一樹は、大妖怪を酒で酔わせて、隆士に使役させたいわけではない。
供物奉納によって与力を願うほうだ。
隆士が日本酒を積み込んだのを見届けて、一樹と沙羅は船に乗り込んだ。
「それじゃあ出港だ。まずは三重県熊野市の遊木町にある入り江を目指す」
一樹が宣言すると、高速警備救難艇はゆっくりと新宮港の岸壁を離れ始めた。
幽霊巡視船の一部である船は、エンジン音を上げず、静かに波間を切り裂いて進んでいく。
岸壁から離れるにつれ、港湾施設や停泊する船の姿が徐々に遠ざかり、小さくなっていった。
新宮港の周囲は、まだ朝靄が海面に漂い、遠くの風景がぼんやりと霞んでいる。
背後には、和歌山の山々がうっすらと緑色のシルエットを見せ、港の喧騒が静かに薄れていく。
隆士は手すりを握りしめ、船が安定して進む様子をじっと見つめていた。その表情は硬く、唇を引き結んだままだったが、どこか心の準備をしているようにも見えた。
「確認しておく。俺はA級の幽霊巡視船を使役しているが、それを出すと、隆士に使役させたい妖怪が近寄らないから、今回は出せない」
「はい」
「想定外の妖怪が現われた場合、沙羅は俺を掴んで飛ぶ。沙羅は俺の安全のために来たのであって、隆士のために来たわけではない。隆士は、俺が使役している絡新婦の妖糸を巻き付けて、引き上げることになる」
「分かりました」
「海の戦いが得意な陰陽師は、滅多に居ない。俺も、陸に比べて海は不得手だ。だからこそ隆士が海の妖怪を使役すれば、引く手数多になるわけだが」
島国である日本では、海の妖怪に関する依頼が多い。
それらの依頼に対応できるようになれば、かつて水軍だった九鬼は、面目躍如だろう。
港を完全に抜け出すと、視界には熊野灘の広い海原が広がった。
空は相変わらず薄曇りだが、雲間から一筋の陽光が差し込み、海面に金色の光が揺れるように映っている。
白波が船首をかすめるたびに、微かなしぶきが空気に舞い上がり、潮の香りを漂わせた。
「風が気持ちいいですね」
船の縁に立った沙羅が、隆士の緊張感を解きほぐすように、穏やかな声を上げた。
そして身体のバランスを保ちながら、縁の上を軽やかに歩く。
突風でバランスを崩したとしても、沙羅は即座に黒翼を広げて、空に舞い上がれる。
だから転落を恐れることなく、気楽に跳び回れるのだ。
錚々たる陰陽大家が、どうやっても五鬼童家に勝てない所以である。
――空を飛べるのは、凄いアドバンテージだよなぁ。
一樹達を乗せた船は速度を上げて、熊野灘の沖をまっすぐ進んでいく。
海上には小型の漁船がちらほらと浮かび、遠くには山影が連なっている。
紀伊半島の沿岸は、険しい岩壁が続き、その合間に入り江や集落が点在して見える。
時折、岸辺の松林が風に揺れる様子が、遠くからでもはっきりと分かった。
しばらくすると、三重県熊野市の遊木町が近づいてきた。
入り江は穏やかで、波も小さく静かだ。
岸辺には古びた漁港の建物が並び、遠くに木造の小さな神社が見え隠れしている。
岩場の間には細い小道が続き、鬱蒼と茂る木々がその風景を包み込んでいた。
船が徐々に速度を落とし、入り江の浅瀬へと近づいていった。
そして船を繋ぎ、隆士に告げる。
「ここが目的地だ。今回は、隆士が式神を使役するために、先に海童という妖怪に協力してもらう。酒は、協力の手間賃に必要な物だ」
海童は、『於杉於玉二身之仇討』(1807年)に記される妖怪だ。
ある時、紀の国の新宮(和歌山県新宮市)から、伊勢の九鬼(尾鷲市九鬼町)への船があった。途中、入り江に船を寄せて夜を明かしていると、どこからか声が聞こえて、人影が見えた。
しばらくして静かになり、休んでいると、大きくて真っ黒なものが船の中に飛び込んでくる。
慌てて目を覚まして灯りを付けたところ、異様な妖怪が浮かび上がった。
それは子牛ほどの大きさで、頭に鳶色の毛が生えて腰まで伸びており、顔は猫のようで、目はきつく、両手に水かきがあり、爪は刀のように鋭く、両足は魚のようで歩くことは出来ず、背中には鱗があり、腹は蛙や魚のような姿の存在だった。
船頭は、『この者は海童という海に住む妖怪である。人を傷付けず、渡る船を守り、鮫を食い殺すので、この海には鮫が棲まない。我々は海の神として扱っている』と語った。
海童の好みが酒だと聞いた客が、振る舞ったところ、海童は一斗(18リットル)も飲んだ。
人を守ることを褒めてみたところ、海童は嬉しそうにしながら、海へと帰っていった。
於杉於玉二身之仇討の挿絵側には、海童が船底を突く悪魚のカジキを食うとも書かれている。
「隆士は船に残って、海童を待て。そして海童が現われたら、酒を振る舞って、与力を請え」
「分かりました。賀茂先輩は、どうされるので……」
隆士の視線の先では、沙羅が一樹の左腕を両手で抱えて、しなだれかかっていた。
常識的に考えれば、高校二年生の女子である沙羅は、隆士と一緒に小船で泊まれない。沙羅は、ホテルなどに滞在して待つことになるだろう。
その際、一樹はどちらと一緒に居るだろうか。
「護衛として、絡新婦の式神を陸に置いておく」
「了解しました」
無言で微笑みながら頷く沙羅を見て、隆士は沙羅が無償で手伝ってくれた所以を理解した。




























