193話 決戦・春日山
「さて、あいつらは帰って来ないわけだが」
紀伊半島は、日本で最大の半島だ。
9900平方キロメートルもあって、東京都の2194平方キロメートルよりも遥かに広い。
そのような広大な地域に解き放ったのだから、どうなるのかは自明の理だ。
「遊んでいるかもしれませんね」
育ての母である蒼依が、子供達の行動を予想した。
蒼依の予想には、遺憾ながら使役者の一樹も同意する。
「家から遊びに行くなら、泊まりがけでも良いんだけどな」
一樹は、八咫烏達が迷子になることは心配していない。
伝書鳩は地形を目印にして、渡り鳥は磁場を感知する。
それらと同様に、八咫烏達は呪力を感知できる。
そもそも八咫烏達は、『古事記』では高御産巣日神が、『日本書紀』では天照大神が、神武天皇を熊野国から大和国に導くために派遣した神使だ。
八咫烏達の感知能力が低いと、神武天皇が熊野国で遭難して日本神話が終わる。
天の創造神、あるいは天上の主神は、一か八かの賭けで八咫烏を送り込んだわけではないだろう。八咫烏達の感知能力は、主神が遣わすほど優れている。
実際に八咫烏達は、使役者の一樹、神使にしている蒼依、蒼依姫命の神域には正確に帰ってくる。
天空の社を建立した時は、都外に行っても、ちゃんと東京天空櫓に帰ってきた。
小鬼を見つけるのが上手すぎる件についても、それで完全に説明が付く。
だから八咫烏達は、確実に帰って来る。
問題は、いつ帰って来るのかだ。
一樹達は奈良県に住んでおらず、八咫烏達が帰って来るまで待っていられない。
だからといって、八咫烏達を置き去りにして花咲市に帰るわけにも行かない。
そんなことをすれば、玄武と黄竜以外が、月単位で帰って来なくなる。
『戻って来い』
呪力の繋がりが途切れていない一樹は、八咫烏達に指令を送った。
使役者が式神と繋がれる範囲には、限界がある。
だが一樹と八咫烏達は、花咲市から東京天空櫓にまで繋がりが届く。
閻魔大王の神気だからか、それとも蒼依姫命の仲介があるからなのかは、一樹にも分からない。理由は不明だが、事実として届く指令によって、八咫烏達は帰還を命じられた。
『クワーッ』
朱雀達から返ってきたのは、妖怪を追い立てながら戻るというイメージだった。
イノシシのような何かが地上を走り、八咫烏達は三羽で追い立てている。
玄武は単独行動で、別方向でのんびり翼を旋回させる姿が浮かんだ。
「玄武は良いとして、朱雀達は何をやっているんだ」
「昔、うちで牡丹鍋を出したことを思い出したのでしょうか」
「有り得るな」
相川家が所有する山々は、大部分が妖怪の領域に属している。
人間が住む家は人間の領域で、そのほかは人間が住んでいないので、妖怪の領域という認識だ。つまり家を除いた大部分が、妖怪の領域である。
人間が踏み入らないので、野生動物は沢山徘徊している。
イノシシが紛れ込むこともあって、相川家では牡丹鍋になった。
朱雀達がようやく飛び始めた頃の話で、残念ながら朱雀達は戦力外だった。
「リベンジしたいのか」
小鬼よりもイノシシを優先した理由を察した一樹は、溜息を吐いて受け入れた。
単独で大鬼に匹敵する力を持ちながら、今さら何をやっているのだと思わなくもないが、朱雀達にとっては大切なことだと認識する。
暫く待つと、やがて大地を揺るがす、非常に大きな物音が轟いてきた。
「ブオオオオオオッ」
視界に映る稜線の先で、吹き飛ばされた木が数本、同時に舞い上がった。
呆気に取られた一樹が呆然と眺める中、沙羅が奈良県出身の上級陰陽師として見解を述べる。
「あれは、イノシシの妖怪『あから』かもしれません」
「あからって、あの大妖か」
あからは、奈良県天理市に伝わるイノシシの妖怪だ。
かつて旧暦の11月1日頃(現12月1日)、天理市岩屋町の山奥から現れた。
あからは川筋を辿り、石上、上総、喜殿、六条、八条、額田部といった天理市から大和郡山市まで広範囲の畑の作物を1日で食べ尽くして、台無しにする被害をもたらした。
そのため天理市では、あからの頭を作って祀り、あからが暴れないように祈願するようになった。
あからを静める儀式は、かつて上は岩屋から下は額田部まで、皆が仕事を休んで広く行った。だが近年は出没して居らず、祀りは大幅に縮小している。
「そんなものを、山から出すなっ!」
姿を現した大妖は、僅か1日で広範囲の畑の作物を食い荒らした伝承に相応しく、巨体であった。
全長8メートルの牛太郎よりも一回りは大きそうで、その巨体で突進されれば、牛太郎でも吹き飛ばされるのではないかとすら思えた。
「おい、おい、おい」
一樹が慌てて西のほうを振り返ると、奈良公園では多くの人が山を指差して、数十人ほどが道路から走って逃げていた。
あからが突っ込んでくると、最初に踏み潰されるのは春日大社だろうか。
かつて建御名方神を倒した、建御雷神を主祭神の第一殿に祀る春日大社が物理的に潰れるのは、A級1位の諏訪であれば思わず笑みを浮かべる事態かもしれない。
だが建御雷神は、三尾の良房が当主を務めた藤原氏の氏神でもある。
春日大社がイノシシの下敷きになると、一樹は板挟みで困ったことになる。
春日大社からもお叱りを受けて、再建費用を賠償させられるに違いない。獅子鬼の調伏で稼いだ300億円が、盛大に吹っ飛んでいくだろう。
『牛太郎、取り押さえろ。信君殿、成敗願います!』
一樹は形振り構わずに、直ちに最大戦力を投じた。
すると顕現した牛太郎が棍棒を持って山を駆け上がっていき、併走する信君も鳴神兼定を抜く。
対するあからは、大きな身体の牛太郎に狙いを定めて、突っ込んできた。
衝突は、直後だった。
A級下位の牛太郎が振りかぶった棍棒が、あからの頭に叩き落とされた。
ズガァンと、巨大なショベルカーのショベルが大岩に叩き付けられたような爆音が轟く。それと同時にドガアンと、投げ付けられた大岩が山にぶつかったような音も鳴り響いた。
牛太郎の棍棒は、あからに大打撃を与えた様子だった。
殴られたイノシシの巨体が、倒れながら山肌を滑り落ちていく。それは稜線と、春日大社の背後にある山の間にある窪みへと転がっていった。
だが牛太郎のほうも、大質量の突進は堪えたようだった。
吹っ飛ばされて、春日山原始林の木々を幾らか巻き込みながら、倒れていった。
いずれも春日大社は破壊しておらず、一樹は心から安堵した。
傍目には相打ちだが、一樹の式神は牛太郎だけではない。
春日大社の裏手を駆け抜けた信君が、大きく跳躍して襲い掛かる。
『鳴神』
風神の風刃が、イノシシの巨体を深く斬り裂いた。
その傷口からは、すかさず雷神の雷が注ぎ込まれる。
「ピギャアアアッ、ギャアアアッ、グギャアアアッ」
まるでドラゴンが吠えたような雄叫びが、春日大社と奈良公園に轟き渡った。
「奈良公園の鹿が、一斉に逃げていきます」
沙羅の声に一樹が振り返ると、鹿の群れが奈良駅の方向に走る姿が見えた。
もちろん大勢居る観光客も、一目散に逃げている。
妖怪が蔓延る世界では、大妖が現れたのに暢気に見物する者など、自然淘汰されて残っていない。現在生き残っているのは、逃げ足が早かった優秀な者達の子孫ばかりである。
鹿せんべいの販売所が引っ繰り返り、重い手荷物が投げ捨てられ、寺の坊主も全力疾走する。
奈良公園と周辺は、大パニックに陥っていた。
「あああああ……」
一樹は思わず頭を抱えた。
今回は陰陽師に成って以来、最大のやらかしではないだろうか。
春日山原始林のほうでは、式神は激戦を繰り広げている。
上空には五光が舞っており、合流した八咫烏達が、イノシシの巨体を五行の術で爆撃していた。
5羽は、単体で大鬼並の力を持っている。そんな八咫烏達が本気で術を放つのだから、周辺の木々は軽々と吹き飛んでいく。
春日山の木々が、次々と吹き飛ばされて舞い上がる光景は、奈良駅からも眺められた。
すると逃げていく人々の姿は、当然のように増えていく。
つい先月まで、日本中が獅子鬼によって絶大な被害を受けていた。
それを覚えていた奈良市の人々は、怪獣映画で怪獣が現れた時のように、一目散に山の反対側へと逃げていた。
「もう勘弁してくれ」
あからと一樹は、相打ちである。
あからは身体に致命傷を負ったが、一樹も精神に致命傷を負った。
「奈良県の陰陽師協会には、上手く説明しますので」
「……よろしくお願いします」
沙羅が得意気に告げると、一樹は項垂れた。
今回、唯一の収穫は、一樹の隣で蒼白になっている鬼太郎の教育が成ったことだろうか。
一樹が式神契約を解除しても、鬼太郎は絶対に人間を襲わないだろう。
原始林のほうでは、あからを倒した八咫烏達が、勇ましく勝鬨を上げていた。


























