191話 奈良の神使
1月最後の土曜日。
一樹は蒼依と沙羅を連れて、奈良県を訪れた。
塗り潰しの絵馬を手に入れるべく訪れてから、僅か2週間での再訪問となる。
前回と異なるのは、八咫烏達を連れてきたことと、訪問先が若干異なることだ。
「たくさんの鹿が居ますね!」
「……ああ、そうだな」
一樹達が訪れたのは、1000頭以上もの鹿の群れが居る奈良公園だった。
正確には、「道中に立ち寄った」と言うべきで、蒼依が鹿を見たいと希望した。
今回は大した用事でもないので、一樹は蒼依の要望に付き合った。
――奈良の鹿、観光地の一つだからなぁ。
奈良の鹿は、とても有名だ。
江戸時代の『大和名所図会』(1791年)にも、人々が鹿と戯れる姿が描かれており、子供が鹿せんべいらしきものを与えている様子も見て取れる。
「鹿せんべいの販売所に、集まっていますよ」
「観光客が鹿せんべいをくれると、分かっているんだろうな」
「野生動物なのですよね」
「飼い主は居ないそうだが、江戸時代から鹿の角切りをしているし、出産前の鹿は鹿苑に保護するし、完全に野生動物だとは言い切れないかもしれないな」
奈良の鹿達は、半野生動物に分類すべきだろうか。
そんな鹿達は、人間に慣れ切っており、鹿せんべいを目当てに寄ってくる。
大きな野生動物の群れを、ある程度操れる体験は、ほかでは中々出来ない。
おかげで10枚200円の鹿せんべいは、年間2000万枚も売れている。
鹿達は、絶対に鹿せんべいをくれない販売所の中年女性は無視して、確実にくれる観光客の挙動を見守っている。
観光客の一人が鹿せんべいを買って歩き出すと、鹿が「よし寄越せ」とばかりに付いていく。
完全にプロの動きであった。
「あいつらって、普通の草も食べるんだよな」
一樹が問うと、奈良県民の沙羅は頷いた。
「奈良公園の植物は、鹿の口が届く範囲は、綺麗に食べられていますよ」
「ほほう」
「鹿せんべいは、鹿にとっては『おやつ』だとは言われますね」
「栄養になるのか」
「鹿せんべいは、小麦粉と米ぬかで作っているそうです」
小麦粉は、小麦を製粉した粉だ。
米ぬかは、玄米の表面(糠層や胚芽)を削って精米すると発生する粉だ。
どちらも植物由来で、草食動物の鹿であれば消化できて食事にもなるだろうと一樹は理解した。
鹿せんべいを求める鹿の姿に耐えられなくなったのか、蒼依は販売所に歩いて行った。
「すみません。鹿せんべいを6つ下さい」
「あいよ」
鹿せんべいは、10枚入りで1セットだ。
60枚も買うのかと一樹は驚いたが、販売所の中年女性は慣れている様子で、お金を受け取って鹿せんべいを渡した。
それを受け取った蒼依が戻ってきて、2セットずつを一樹と沙羅に渡した。
「おう、サンキュー」
「ありがとうございます」
蒼依から鹿せんべいを受け取った一樹達は、お礼を言った。
獅子鬼調伏で共闘して、大金を得た一樹達は、細かいことは気にしない間柄になっている。
協会は、蒼依姫命に対しても口座を作って、報酬を振り込んだ。
S級調伏は1000億円が基準で、獅子鬼は2倍の2000億円が分配された。
蜃の領域内に隔離されて、魔王や羅刹達と直接戦ったA級3名、B級3名、女神1柱の7名には、総額の8割にあたる1600億円が割り振られている。
・乱入して真っ先に魔王を受け持ち、殉職した諏訪が400億円。
・一樹、小太郎、蒼依のA級2名と女神が、300億円ずつ。
・沙羅、晴也、堀河のB級3名が、100億円ずつ、
・残る400億円は、A級4名が65億円ずつ、B級7名が20億円ずつ。
霊狐を召喚した豊川の負担は、重いように思える。
だが宇賀は羽団扇を作らせて、その対価で五鬼童家と春日家を動員した。
五鬼童家は魔王領の拡大を抑え込んだし、向井は協会長として統括した。
細かく計算すればキリが無いが、内輪は概ね納得する分配となっている。
それらの報酬は、政府によって全額が非課税所得とされた。
報酬を払わないどころか、協会が魔王対策に使った費用から税金を徴収したと世間に知られれば、支持率が大きく下がるからだ。
最近の前例としては、『新型コロナウイルス感染症対応従事者慰労金交付事業』で医療従事者に支払われた給付金も、非課税所得とされている。
年収300億円に占める鹿せんべい200円は、1億分の1未満。
年収300万円ならば、0.02円程度の話となる。
そもそも税金で半分持って行かれる話もなくなっており、全員が予定の倍額をもらえている。
沙羅が蒼依を抱えて飛び、一樹が神気を送ってトドメを刺し、逆も然りで出した成果でもある。三人の間で細かいやり取りは、些事になっていた。
「こいつら、本当に付いてくるな」
奈良公園を歩き出した一樹達の後ろから、数頭の鹿が着いてくる。
振り返ると何度かお辞儀して、「鹿せんべいを下さい」と訴えているようだった。
奈良の鹿は、鹿せんべいをもらうために、愛想を振り、頭を上下に振ってお辞儀や、催促する。そして掌を見せて鹿せんべいが無いと教えると、仕方がないとばかりに、素直に引き下がる。
おねだりされた蒼依は、早速せんべいを割って、鹿の口元に差し出した。
すると鹿は、蒼依の手を噛まないように気を付けながら、ゆっくりと鹿せんべいを食んだ。
蒼依の表情が、ぱぁっと明るくなる。
「お気に召したようで何よりだ」
蒼依が鹿を惹き付けている間、一樹は鹿せんべいを割り、肩に乗る朱雀に与えた。
「クワッ」
割られた鹿せんべいをパクッと咥えた朱雀が頭を上に向けて、せんべいを飲み込んだ。
すると上空を舞っていた青龍達が、「自分達にも寄越せ」と降りてくる。
鹿せんべいを細かく割った一樹は、それを地面に撒いた。
「カアッカアッ」
カラス化した青龍達が、地面に撒かれた鹿せんべいに群れていく。
沙羅は、一樹が朱雀達に与えた鹿せんべいが取られないように、新たに寄ってくる鹿の足元に鹿せんべいを放り投げた。
一樹達の目の前で、鹿とカラスの饗宴が始まった。
「そういえば奈良市の春日大社では、鹿は神が乗ったとして、神使として扱っているそうだ」
「神使ですか」
「カアッ?」
鹿せんべいを咥えた朱雀が、蒼依を真似て鳴き返した。
そんな朱雀達も、れっきとした蒼依姫命の神使である。
蒼依と5羽の八咫烏には、通常の式神同士とは異なる呪力の繋がりがある。同じ式神同士でも、牛太郎や水仙との間には存在していない繋がりだ。
それが神と神使との繋がりではないかと、一樹は考えている。
神使であった鹿と同一種、あるいは子孫の鹿は、奈良県で千年以上に渡って保護されてきた。
「鹿に乗った神様って、誰なんですか」
「かつて建御名方神を倒した、建御雷神らしい。白い鹿に乗ったそうだ」
一樹が神名を告げると、蒼依は凄いとは言い難い、微妙な表情を浮かべた。
建御名方神は、A級1位である諏訪に御魂を宿らせる神だ。獅子鬼との戦いでは、分断されそうになった一樹達を救うべく割って入った。
協会の人間は、交流があって御利益をくれる建御名方神に寄った考えになる。
建御雷神は、世間的には国譲りの功労者である。だが諏訪にとっては、住んでいた土地を寄越せと言って力で追い出した神だ。
「建御雷神の神使だからか、鹿の保護は、かなり厳しく続けられたそうだ」
かつては、鹿を殺せば『石子詰』という刑があった。
それは殺した鹿と一緒に生き埋めにして、その上に石を詰めていく刑罰だ。
奈良市にある菩提院大御堂の境内には石子詰の跡があって、春日大社の鳥居へ向かう道中の土塀沿いには『傳説三作石子詰之跡』と墨書された木標も立っている。
昔、興福寺の小僧達が寺で習字をしていた。
すると庭に鹿が入り込んできて、小僧達の紙を咥えた。
三作という小僧が鹿を止めるべく、鹿に向かって文鎮を投げたところ、運悪く急所に当たって鹿は死んでしまった。
鹿を殺してしまった三作は許されず、数えで13歳であった年齢にちなんで一丈三尺の穴が掘られて、死んだ鹿と共に入れられて、生き埋めにされた。
三作は父が亡くなっており、母と二人家族だった。
母は三作の霊を弔うため、明け7つ(午前7時)と暮れ6つ(午後6時)に鐘を突いた。
そして自分の死後は、鹿殺しの三作に誰も線香など供えてくれないと思い、紅葉の木を植えた。
「首都圏を守った朱雀達の子孫を殺害する人間が居たら、守られた人間達が怒るのは無理もない。神の御利益を得るか、怒りを買うかは、自分達が生きるためには切実だからな」
蒼依も朱雀達の子孫を殺されれば、かなり怒るだろう。
まして建御雷神ともなれば、何が起こるか知れたものではない。
奈良の鹿は、現代の動物保護団体も真っ青になる熱心さで守られてきた。
すると鹿のほうも、完全に人間に慣れる。
現代では逃げないどころか、人間を『鹿せんべいをくれる生き物』と認識するに至っている。
「クワッ」
「チュィーン」
二神の神使達は、鹿せんべいが無くなったぞと訴えてきた。


























