176話 霊狐の新年会
豊川稲荷にある奥の院の裏手。
その場に張られた結界を抜けた先には、巨大なお堂が建っていた。
「小学校の体育館くらいありそうですね」
「平屋だけどな」
蒼依が指摘したとおり、お堂は小学校の体育館と同じくらいの広さがある。
だが平屋の1階建てなので、体育館に比べれば屋根は低い。その代わりに建物の造りは荘厳で、豊川稲荷の敷地内に建つだけの充分な威厳を備えていた。
「それじゃあ入るぞ」
お堂の門をくぐった一樹達は、玄関に踏み入った。
玄関の奥には長い廊下が続いており、廊下の外側は防寒のガラス戸で、内側は襖が続いている。
中に入った一樹が襖のほうを開くと、そこは大座敷になっていた。
大座敷には、1台の机を2枚の座布団で挟んだ席が10組20席。
その20席が、大座敷の奥のほうへ伸びている。
体育館で、小学生がクラスごとに整列して座っているような、整然たる光景。
動線を確保するためか、列は途中で何度か途切れるが、基本はギッシリと詰め込まれている。
そして座布団には、霊狐塚に宿る霊狐達が、千人ほども座している。
卓上には日本酒や稲荷寿司が置かれ、霊狐達は美味そうに飲食していた。
「ここでは一体、何をしているのでしょうか」
皆の困惑を代弁したのは、沙羅だった。
案内する一樹自身も、事前に話を聞いていなければ、一緒に戸惑っただろう。
各席の霊狐達は、飲み食いをして、陽気に騒いでいる。
また一部の席には、持ち込んだ煎餅や稲荷つくねもあって、それを狐火で炙って食べていた。
「ここは、霊狐達の新年会の会場だ」
「新年会ですか」
「そうだ。正月に屠蘇を飲むのは、邪気祓いの儀式だ。蜃の調伏を行った霊狐達が、身体に付いた邪気を払う目的もある」
「そういうことなのですね」
「まあ、単なる建前だけどな」
一樹の目が泳いだ。
実態は邪気祓いの建前が1パーセント、新年会の本音が99パーセントだ。
だが結界を張って、外の参拝者達からは見えないように配慮もしている。
――結界の才能の無駄遣いが、酷い。
思ったことを口には出さず、一樹は奥のほうへと進んでいく。
「上座のほうに行って、大丈夫なのですか」
「たしかに二尾の霊狐が、チラホラと混ざっているな」
蒼依に尋ねられた一樹は、確かに偉そうな狐達が増えてきたと思った。
一樹が聞いた話では、妖狐が一尾を増やすには、通常では500年以上掛かる。
二尾の寿命は900年なので、二尾の大半が500歳から900歳だ。
そんな二尾の呪力は、C級からB級だ。だが昨年のエキシビションマッチでは、C級の呪力で顕現した二尾の源九郎狐が、B級の力を持つ凪紗の首を斬った。
『二尾は呪力が高いのみならず、武芸や仙術を修め、賢さも兼ね備える』
長命で、武芸や仙術も練達している二尾は、戦闘力で考えればB級になる。
人間に置き換えれば、各地の統括が、団子になって酒を酌み交わしている。
一樹達の現状は、都道府県の医師会や弁護士会の会長達が酒を酌み交わしている中を、上座に進んでいくようなものだ。
それは気後れするかもしれないと思った一樹は、今回の主旨を説明した。
「俺達が招かれたのには、理由がある」
「理由ですか」
「ああ、そうだ。大規模な妖怪調伏の後には、打ち上げの慣習がある」
槐の邪神と虎狼狸の調伏後、一樹は協会長から、打ち上げの慣習を聞かされた。
絶対ではないが、大規模な共同作戦後には、打ち上げが行われることもある。
その時は上席だった豊川が、『狐達の悪ふざけに未成年の一樹を誘えない』と判断して、一樹に飲み食いの金を渡した。
金を受け取った一樹は、調伏に参加した蒼依と沙羅に還元している。
「これは魔王調伏の打ち上げだ。ここに居る霊狐達は、全員が作戦の参加者だ」
「そうなのですね」
納得した蒼依が安堵の声を上げた。
魔王調伏の打ち上げであれば、蒼依と沙羅は直接戦ってトドメも刺した。
呼ばれても場違いではないし、むしろ宴会の主役だ。
本来主催すべきは、A級1位で最上位者の諏訪だが、諏訪は殉職している。
すると次席はA級2位の宇賀になるが、諏訪が殉職した時点で打ち上げの開催は微妙であるし、大規模な宴会は『怖い、厳しい』というイメージ戦略を採っている宇賀に似合わない。
結果として開催されなくなり、狐達は勝手に宴会を始めた次第であった。
「でも、あたし達は参加していませんけれど」
「香苗と柚葉は、活躍した俺の弟子枠だ。新年に呼ばれたから、初詣のついでに招いてもらった。打ち上げの慣習を教えておくのは、師匠の責任だと思ったからな」
「良いのですか」
「事前に確認しているから大丈夫だ」
豊川と霊狐達は、魔王戦において蜃の領域の外側に居た。
外側だけで祝勝会を開くのも微妙で、一樹と蒼依は是非にと招かれた側だ。
そのため一樹は、弟子の教育を兼ねて堂々と参加できた。
もちろん弟子の一人が、豊川稲荷で教わった香苗ということもあってだが。
一樹達が進んでいくと、一番上座に三尾の良房が座しており、座布団5枚分の席が空いていた。
「賀茂氏、そして皆も、よく来たね」
「この度は、お招きありがとうございます」
「うむ。座り給え」
一樹が頭を下げると、良房は席に座るようにと促した。
まずは一樹が、率先して良房と向かい合う席に座る。
一樹の隣に蒼依、その隣に沙羅、良房の隣に香苗、その隣に柚葉が座った。
「無関係なあたしまでお招き頂いて、すみません」
「気にすることはない。毎年やっている新年会の名目を、派手にしただけだよ。香苗君は仲間であるし、龍神のお嬢さんも、昨年は香苗君と共闘していよう」
同席する柚葉と沙羅を気遣ったのか、良房は柚葉も仲間内に含めつつ、沙羅にも配慮した言い回しをした。
同席者達の居心地を良くした良房は、食べ物を勧めてくる。
「ここにある物は、りん君が我らを召喚するために用意している神饌であり、君達と食する直会だ。りん君のためにも、遠慮なく飲み食いしてくれ給え」
「ありがとうございます」
一樹達の席にも稲荷寿司と飲み物が置かれている。
飲み物のほうは、ウーロン茶と酒が置かれていた。
それを見た香苗が、良房に尋ねる。
「こっちは、お酒ですか」
「御神酒で、屠蘇だよ。御神酒が何かは、知っているかな」
「神様にお供えするお酒のことですよね。お供えしたお酒には霊力が宿って、お供えを下げた後の酒を飲むことで、神様のご加護と恩恵を得られると聞きました」
「うむ。それでは屠蘇とは何かな」
「薬草、みりん、日本酒などを混ぜて作る飲み物で、元は『悪魔を払うために数種類の薬草入りの酒を飲む』という中国の風習が、平安時代に伝来したものです」
「如何にも。これを飲めば、神霊の加護と恩恵を得て、邪気を払える。宗教儀式で風習なのだから、未成年の君達が飲んでも良い」
屠蘇は、『蘇(鬼)を屠る』という意味を持つ。
平安時代の『土佐日記』にも記される日本の風習で、屠蘇を飲んだからといって警察が捕まえるようなことはしない。
香苗は迷った後、盃を手にした。
「それじゃあ、少しだけ」
「『一人これを飲めば一家疾みなく、一家これを飲めば一里病なし』と祈念して、年少者から順に飲むと良い」
「分かりました」
香苗に合わせて一樹達も盃を口にした。
全員が同学年なので、年少者は居ない。
一樹が口にした屠蘇は、薬草が薄められており、ほのかに甘みも感じられた。
「美味しいのですね」
「りん君のお手製だよ。普段から供えることで、事前に対価を払い、我らを召喚しているわけだ」
「それで、あれほどの護法神の召喚が叶うわけですか」
A級3位の豊川りんは、豊川稲荷の霊狐塚から、1000体もの付喪神を同時に召喚できる。
本来であれば、自身に比肩する三尾の良房を1体喚び出すだけで呪力が尽きる。
それを補うためには相応の対価が必要だが、その支払いの一端が垣間見えた。
「どうせだから、香苗君も奉納すると良い。最近は、芸能に秀でた式神を使役したと聞いているよ」
「……はい」
あまり気乗りしなさそうな様子で、香苗は良房の提案に応じた。
香苗が式神の琴里を出すと、彼女はステージのほうに移動して、顕現させた琴を奏で始めた。
曲は、正月に向いた『春の海』だった。
1929年に作られて、2007年に『作曲家の没後50年』で著作権保護期間が満了した古い曲だが、今も正月の定番となって奏でられ続けている。
本来は箏(琴)と尺八の二重奏だが、琴里は琴だけで見事に演奏した。
流れてきた美しい音色に狐達は喜んでいるが、香苗は暗い表情のままである。
「何か悩み事かな」
良房は琴里に視線を送りつつ、香苗に尋ねた。
「差があるなと」
「ふむ」
言い淀み、琴里を見ながら遠慮がちに呟いた香苗の話は、音楽の技量であろうと良房は判断した。
豊川稲荷で歌唱奉納を行った香苗は、二尾の五狐から魂の欠片を託されている。
五狐はいずれも自分の意思で託したが、託された香苗は力量不足を感じるのだ。
一樹であれば、牛太郎よりも力が強くなりたいとか、信君よりも剣技に秀でたいとは思わない。だが陰陽術に秀でた式神を使役したならば、陰陽師である自分と比較して意識しただろう。
最近の情報をそれなりに知る良房も、香苗の動画は、既知であった。
歌唱に秀でた菜々花と、演奏に秀でた琴里は、いずれも早世した。
両者は、歌って三百数十年、琴を奏でて八百数十年だが、指導者の経験は無い。
式神に香苗の指導は期待できないと見なした良房は、別の解決策を提案した。
「それならば、音楽の御利益をもらってくると良い」
「音楽の御利益ですか?」
「左様。以前から気にしていた話がある。師匠である賀茂氏に依頼する故、香苗君も付いていくと良い」
聞き耳を立てていた一樹は、良房に話を振られてすぐに頷いた。


























