175話 豊川詣
年明けを数十分後に控えた大晦日の深夜。
花咲高校の陰陽同好会に所属する6名中5名が、愛知県豊川市の豊川稲荷へ初詣に訪れていた。
「小太郎が来られないのは、残念だったな」
「当主になった花咲家に、分家や親族から新年の挨拶があると言っていましたね」
一樹が呟くと、香苗が小太郎の状況を慮った。
花咲家は、売上高1兆円を超えるグループ企業を抱えており、親戚には支社を任せている。
親戚を厚遇するのは、犬神が選んだ者が本家を継承するが故で、自分の子供世代では立場が入れ替わるかもしれないからだ。
そのため本家を継いだからといって、親戚の挨拶を無視して同好会の初詣には来られない。
そんな小太郎を除いた一樹、蒼依、沙羅、柚葉、香苗が同好会として集った。
大晦日の夜空には、沢山の花火が打ち上がっている。
「凄い花火ですね」
「他所で花火を打ち上げて、参拝者を分散させたいらしい。効果は、まったく無いようだが」
群衆を見渡した一樹は、溜息を吐いた。
豊川稲荷は、日本に三万社もある稲荷社の中でも最大級の知名度を誇る。
その理由の一つが、A級3位の豊川りんだ。
彼女が陰陽師として活躍したことで、豊川稲荷の知名度が増した。
あと数十分で昨年となる今年は、魔王に使役されていた妖怪の蜃を、霊狐の大集団が撃破した。それは豊川りんが召喚した、豊川稲荷の霊狐塚の霊狐達だった。
そのように、人々が豊川稲荷に助けられたことは、過去に幾度もあった。
御利益があった人々が、どこの稲荷社に感謝して参拝に訪れるかなど、考えるまでもない。
豊川稲荷の敷地や施設は、過去に何度も拡張されたが、拡張した分だけ人が増える状況である。
「規制などは、しないのですか」
「初詣は、神社やお寺への参拝だ。禁止に出来るはずがない」
あまりの混雑さに蒼依も尋ねたが、一樹は首を横に振った。
すると柚葉が、根本的なことを尋ねてきた。
「そもそも豊川稲荷が祀っている豊川陀枳尼眞天って、何なんですか」
「参拝に来てから聞くなよ。仏教の護法神になった女夜叉だ」
豊川稲荷が祀る豊川陀枳尼眞天は、仏教の護法神だ。
豊川陀枳尼眞天の『吒枳尼』は、梵語(古代インド・アーリア語)で女夜叉だ。夜叉族は、大乗仏教(日本の仏教は全て大乗仏教)では、護法神となっている。
その代表的な例が、夜叉族から仏教の護法神になった毘沙門天だ。
名前の最後に付く『天』は、大乗仏教で護法神になった『天部』のことを表す。
女夜叉が『吒枳尼』で、仏教の天部になった女夜叉が『吒枳尼天』。
なお豊川陀枳尼眞天は、最初に姿を現した時、頭に豊川とは付けずに『陀枳尼眞天』と名乗った。眞は真でもあり、真の天部となる。
そのため『豊川陀枳尼眞天』は、『豊川の地に祀られる仏教の天部となった女夜叉』だ。
日本では、仏教の神である吒枳尼天を祀る寺院は多い。
吒枳尼天は、稲荷信仰とも混同されて稲荷神と習合し、白狐に乗る天女の姿で表される。
「つまり豊川稲荷が祀っている豊川陀枳尼眞天は、仏教の天部ですか」
「そうだ。そもそも豊川稲荷は、妙厳寺という寺だからな」
1868年、明治政府が行った神仏分離政策によって、吒枳尼天と稲荷神は分けられた。
政府には王政復古、天皇の神権的権威を確立する目的があった。
日本神話で天照大神は、神武天皇の曾祖父にあたる瓊瓊杵尊の天孫降臨に際して『三種の神器』を与えたとされる。
だが天照大神は、大日如来の垂迹(仮の姿)とされて、仏教の立場が上だった。
つまり明治政府は、天皇の立場が下では困ったのだ。
神仏分離政策が行われた結果、寺院は吒枳尼天を祀り、神社は稲荷神(宇迦之御魂神)を祀るようになった。
天照大神も神社で祀り、大日如来は寺院で祀る形に分けられた。
だが吒枳尼を護法神にしたのは、大日如来。
そして稲荷神(吒枳尼)は、高天原から追放されたスサノオの娘で、天照大神(大日如来)の姪だ。
もしも天照大神が、追放した弟の娘の立場を引き上げたのだとすれば、人間側の都合とは関係なく、神話は整合する。
付け加えれば、豊川陀枳尼眞天と稲荷神は、どちらも狐を神使とする。
豊川稲荷でも狐は大切にされており、妖狐のほうも豊川稲荷を大切にしている。初詣の誘導でも、妖狐の子孫達が協力していた。
「総門が開くようです」
沙羅の声で一樹が門を見ると、一時的に閉じられていた総門が、年明けの30分前にゆっくりと開き始めた。
その先には妖狐が並んでおり、中心には豊川りんの姿が見えた。
三尾の妖狐は、視線の一瞥だけで、お祭り騒ぎの群集を瞬く間に圧した。
シンと静まり返る人々に対して、豊川が告げる。
『走らずに、ゆっくりとお進み下さい』
強い口調ではなかったが、だからといって逆らう者は、一人も居なかった。
目の前に、全長100メートルくらいの大蛇がとぐろを巻いており、ジッと見詰めてきたならば、誰だって極度の緊張感を強いられる。
――最初に動いた者が、喰われる。
豊川の圧を受けて、一樹ですらも動きを止めた。
瞬く間に群集を静めた豊川は、それから直ぐにスッと溶けるように姿を消した。
それで周囲を圧していた気が薄れると、ようやく人々が安堵の溜息を吐いた。
それから前方の妖狐達が先導を開始して、その後ろを人々が粛々と付いていく。
随分と大人しくなった群集に合わせて、一樹達も動き出した。
「豊川様、凄かったですね」
総門を入って左手に進み、右手に曲がって、鳥居を潜る。
その間にマイペースに戻った柚葉が、脳天気に宣った。
「お前は、本当に凄いと思っているのか」
「えー、思っていますよ」
龍神の娘である柚葉の危機感は、人間とは大分異なる様子だった。
――龍にとって妖狐は、怖い相手ではないか。
格上の種族が、格下の種族を怖がるのは、無理があるのかもしれない。
そのように思い直して納得した一樹は、話題を変えた。
「そう言えば柚葉は、龍神様の社には参拝に行かなくて良いのか」
「えっ、どうしてでしょうか」
「あちらも神だし、母親だから義理が有るかと思って」
「そんなことをしたら、姉妹から出戻りかと揶揄われますよ」
柚葉は気にする素振りも見せず、あっけらかんと答えた。
かつてムカデ神に突撃させられそうだった柚葉の身柄は、一樹が同好会の頭数を目的として、龍神から引き取っている。
数百年前の倫理観を持つ龍神が納得する名目が、対価を払っての身請けだった。
神と陰陽師との契約は成立しており、龍神は柚葉に関して、一樹の意向を無視した強制はしない。一樹が豊川稲荷を参拝するのなら、柚葉が付き合うのは当然だと思うだろう。
「それなら無理に参拝しなくても良いか」
「やっぱり、わたしは必要ですよね」
「同好会の頭数にも成るし」
「うぐっ」
脳天気な柚葉とは異なるが、香苗のほうも怖がっては居ない様子だった。
香苗の場合は、妖狐同士である。
妖狐が妖狐に畏れを抱いていては、群れでは暮らしていけない。
妖狐と、子孫達のコミュニティは数十万人ほどだと目されている。そして大半は、全国にある稲荷のどこかに属している。
豊川稲荷に属している妖狐の筆頭が、豊川りんだ。
群集を先導している妖狐達も、おそらく豊川稲荷に属している。
――香苗の場合は、豊川稲荷の所属になるのかな。
100歳を超える地狐は、仙術を学ぶ。
それで全国を巡ることもあるので、どこに属するのかは本人次第で、変更も簡単に出来る。
豊川稲荷で教わった香苗は、豊川稲荷に属するのではないかと一樹は想像した。
「御本殿が見えてきましたね」
整然と進む群集の流れに合わせて、一樹達も御本殿に向かっていった。
すると周囲の人々からは「オン・シラバッタ・ニリウン・ソワカ」と、豊川陀枳尼眞天の真言を唱える声が聞こえてくる。
「豊川様によれば、真言を21回唱えると、抜苦与楽(苦しみや悲しみを、楽しみや喜びに変える)の功徳が得られるらしい」
「「「「オン・シラバッタ・ニリウン・ソワカ……」」」」
一樹を除く四者は、律儀に真言を唱え始めた。
自分も唱えるべきだろうかと悩んだ一樹は、結局唱えずに前へと進んでいく。
そして最前列まで辿り着けそうにない賽銭箱に向かって、小銭を投げ入れる。
「賽銭箱の横にあるケヤキの柱に触れると、いっそうの御利益があるらしい」
一樹が説明すると、やはり4人は律儀に柱に触った。
そして群集の移動に合わせて、流されていく。
流れは2つあって、おみくじを引けるおみくじ堂と、霊狐塚のほうだ。
おみくじ堂は、紅白の紙でクルクルと巻かれたおみくじが入っており、1回百円で引ける。
「そっちよりも、奥の院の手前にある『きつねみくじ』のほうが、良いらしい。大人気で、すぐに無くなるそうだ」
「それじゃあ、すぐに行きましょう」
女性陣は占いが好きなのか、すぐに応じて奥の院のほうへと向かう。
三重の塔や七福神巡り、大黒堂などがあったが、寄っていると『きつねみくじ』が売り切れる。
途中の全てを飛ばして、一樹達は目的地に辿り着いた。
そこには白狐、黒狐、金狐、赤狐、青狐という五色の小さな人形がちょこんと並んでおり、その傍には『おみくじは一人一日一回まで』という注意書きがされた立て札も立てられていた。
そして既に、数十人の行列も出来ている。
「あの狐人形の胴体の底には、おみくじが入っているそうだ」
「可愛いですね。それで人気なのですか」
真剣な表情を浮かべた人々の行列を前に、蒼依が首を傾げる。
「豊川様曰く、ちょっとした御利益もあるらしい。程度は知らないが」
「……それは大変ですね」
そんな御利益を与えれば、売り切れは必至であろう。
行列に並んだ一樹達は、五色のきつねみくじを一つずつ買って、売り場を離れた。
「やった、大吉ですよ」
「流石、幸運の白蛇」
運の良い柚葉が、当然のように大吉を引き当てた。
ほかには一樹と沙羅が吉、蒼依が末吉、香苗は凶だった。
不満げな表情を浮かべた香苗が、一樹に尋ねる。
「枝に結んだら、悪い運気を留められるのでしたっけ」
「それに利き手の反対で結ぶと、凶が吉に転じる」
「それなら、帰りに結んでいきます」
「そうしてくれ。この後、少し寄らないといけないからな」
それこそが、一樹達が豊川稲荷に訪れた目的である。
視線で蒼依達を促した一樹は、奥の院の裏手に回り、更に奥へと進んでいく。
すると沢山居た初詣の参拝客が、誰一人として居なくなった。
違和感に気付いた沙羅が、周囲に置かれている狐の石像を注意深く観察する。
「人払いの結界ですか」
「結界造りの名人がいるらしい。招かれなければ、統括陰陽師でも迷うそうだ」
統括陰陽師には、修験道を修めた沙羅の父親や伯母クラスもいる。
そんな者達すら迷わせる結界を抜けると、その先には巨大なお堂が建っていた。


























