102話 煙鬼
日本には、近江(滋賀県)から見える琵琶湖の美しい風景を詠んだ『近江八景』がある。
松尾芭蕉が奥の細道の旅中に詠んだのも、近江八景だ。
『国々の八景さらに気比の月』
そんな日本と同様に、中国にも湖南省の水郷地帯を詠んだ『瀟湘八景』がある。
実のところ『瀟湘八景』が先に作られており、鎌倉時代から室町時代にかけて日本へ齎されて、日本でも近江八景が生まれた。
そんな瀟湘八景の一つには、『山市晴嵐』というものがある。
中国で『山市』は、山に現れる蜃気楼。『海市』は、海に現れる蜃気楼だ。山市晴嵐の第五句では、『蜃市』すなわち蜃が作り出す蜃気楼について詠んでいる。
『蜃市依稀海上』
山市晴嵐の蜃気楼では数年に一度、6里から7里も連なる城と町が見える。
そして蜃気楼の中には、鬼市と呼ばれる亡者の町が見えることもあるという。
『西遊記』から200年後の世界を描いた『後西遊記』では、三蔵法師に相当する大顛法師が旅の途中に立ち寄った賑やかな市街が、蜃の腹の中だった話がある。
蜃に取り込まれた御殿場市は、そのような世界に変わっていた。
「ぬぐうううっ」
蜃の領域と化した御殿場市。
そこに建つホテルの一室で、人の大きさになった獅子鬼が、ベッド上に身体を横たえながら、苦痛に顔を歪ませていた。
8月23日、逢瀬時。
獅子鬼と陰陽師が戦ってから、二週間が経とうとしていた。
想定外に削られた呪力は、肉体を持つが故に、回復しつつあった。
人間が体力、気力、呪力を使い果たしても、数日くらい栄養を摂って休めば、相応に回復する。体力に比べて、気力や呪力の回復には時間が掛かるが、それでも半月も休めば概ね回復する。
それは人間のみならず、肉体を持った獅子鬼も同様で、呪力は半ば回復しつつあった。
肉体を持っていなければ、このような回復は出来ない。
これこそ肉体を持つメリットであり、政府や陰陽師協会が獅子鬼を怨霊化させてでも殺したがる理由であった。
だが肉体を持つことには、デメリットもある。
その一つが、物理攻撃によって肉体が損傷することだ。
先の戦闘により獅子鬼は、様々な傷を負った。
三尾の白狐である良房に噛み裂かれた右腕の傷も深いが、それよりも深い傷が、宇賀に浴びせられたフルオロアンチモン酸だ。
「右腕が、上がらん」
宇賀の気によって、獅子鬼の気を突破した液体は、獅子鬼の右肩に降り掛かった。
それは獅子鬼の皮膚を溶かし、さらに深部に達して骨を溶かし、おそらく神経か何かを損傷させた。なぜなら獅子鬼が右手を上げようとすると、必ず鈍痛が走るのだ。
まったく上げられないことはないが、鈍痛を引き起こさないためには、非常にゆっくりとした動作でなければならない。
右手は、上げずに強い衝撃を与えるだけでも、肩に負担が掛かって鈍痛が走る。
鈍痛を無視して腕を振るうと、半ば損傷した神経か何かが、さらに千切れてしまいかねない。すると右腕は、完全に動かなくなるかもしれない。
そのような危機感が、獅子鬼に激しい動作を躊躇わせた。
獅子鬼は、この負傷を治す手段を持ち合わせてはいない。
利き腕を使えなくなった現状では、前回以上の戦力で再攻撃を受ければ、敗北も有り得る。
「すでに受肉しているからには……やり直せぬ」
A級以上の悪魔邪神は、受肉できる。
受肉し直せば、右腕も治せるだろう。
だが肉体を無くして霊体になるのは、一度死ぬのと同義だ。霊体から復活する負担は大きく、呪力も相応に必要となる。
前回は、復活するために呪力を集めた歳月が、およそ2000年であった。
それだけの時を費やして復活した直後に、片腕が不自由な程度で最初からやり直しになるなど、受け入れがたい。
「人間に2000年もの期間を与えれば、神仏に祈って助けを求めるに決まっている。2000年も祈られれば、いかに気の長い神仏共であろうとも、いずれかは対応に動くだろう」
獅子鬼には、そのような懸念があった。
それに羅刹も、従い続けるとは限らない。
羅刹は、元々は貪多利魔王が率いた悪鬼邪神の軍勢に属していた悪鬼だ。
獅子鬼と羅刹との関係は、同じ方面軍に属した司令官と将官だ。一応配下ではあるが、蜃のように使役はしていない。
総司令官である貪多利魔王が敗北して、総司令部は壊滅した。その後の羅刹は、方面軍司令官である獅子鬼に対して、暫定的に従っている。
かつて、阿弥陀如来が率いた神仏に敗北したような状況であれば、如何ともし難いと敗北を受け入れるだろう。だが人間や狐如きに傷つけられて、やり直しの死を選ぶとあっては、無能な方面軍司令官に従い続ける道理も無くなる。
なぜなら状況に応じて、独自の判断と行動が出来る者こそが、将たり得るからだ。
降伏した貪多利魔王は、自らが裸身になってでも富貴福徳を与える源元貧乏神にされた。獅子鬼から見れば、阿弥陀如来の奴隷である。
そのような末路を見れば、羅刹が仏に降伏することは有り得ない。
であれば羅刹が獅子鬼を見限った場合、独立が妥当な選択だろう。
羅刹という種族は、元々が人を喰う鬼である。それらが地獄の獄卒に使われたり、魔王に従ったりするに過ぎない。
「使役する手は……使えぬな」
利き腕を使えない獅子鬼ではあるが、呪力は羅刹の10倍もある。
左腕で殴り付けて、足で身体を踏み付けて、無理矢理に屈服させることは出来るだろう。
だが不満を持つ相手を術で縛るには、通常の倍程度は、呪力を消費する。不満を持つ羅刹を使役した上で、呪力の回復が困難な霊体に成る場合、霊体の維持すら困難になりかねない。
そして霊体に成らずとも、羅刹を使役していれば呪力の負担が大きすぎて、先に襲ってきた人間との戦いがより困難となる。
そこまで考えた獅子鬼は、盛大な舌打ちをした。
「ほかの魔王を復活させるか」
それは獅子鬼にとって、あまり気分の良い選択では無かった。
貪多利魔王に協力した魔王は、獅子鬼を含めて3体。
明王と戦った烈風魔王。
天部と戦った荒ラ獅子魔王と、天竜魔王。
烈風魔王は上位の力を持ち、天竜魔王は同格の存在だが、現状では天竜魔王のほうが強い。
使役されるほどの差ではないものの、復活させたならば、ほかの魔王が優勢となる。すると意に沿わぬことも起こるだろう。
獅子鬼は苛立ちつつも、このまま敗北に至るよりはマシだと判断した。
「…………羅刹!」
『はっ、お呼びでしょうか』
蜃の領域内にいる羅刹に向かって、獅子鬼は告げる。
「煙鬼を使い、外の人間共の気を集める。それを使い、天竜を復活させる」
『おおっ、天竜魔王様を復活されるのですか!』
羅刹が同格の魔王を様付けて呼んだことに、自身と天竜魔王のどちらに付くのかと想像した獅子鬼は、不快げな表情を浮かべた。
だが口には出さず、指示を続ける。
「そうだ。かつて貴様が連れて来た煙鬼は、気を集めるには向くが弱い。妨害者を潰せ」
『畏まりました。周囲の人間どもを贄に捧げます』
煙鬼は、中国の怪異を載せた『鸝砭軒質言』などに記される妖怪だ。
アヘンという強い依存症のある麻薬で死んだ怨念が現れて、生者にもアヘンを吸わせて中毒にして、自分と同じ死に方をさせようとする存在である。
人間にアヘンを吸わせ、あるいは吹き掛けて中毒にし、気を吸って弱らせて殺す。そして殺した怨念は、新たな煙鬼にする。
感染を広げるゾンビの霊バージョンと考えるべきか。
そんな煙鬼は、気を吸えることから過去に羅刹が捕まえて、獅子鬼に献上している。
獅子鬼が煙鬼を使役して、煙鬼に人間の気を吸わせて逆流させれば、獅子鬼の復活が早まると考えたからだ。
復活前には派手に使えなかったが、現状に至っては、今更であろう。
獅子鬼が復活した時と同様に、煙鬼に人間の気を吸わせて逆流させる。
それを獅子鬼が消化せずに溜めて、天竜魔王の復活に使う。
煙鬼が殺して新たに増える煙鬼は、獅子鬼と繋がっていないので、気の逆流は出来ない。
それでも使役している煙鬼の囮にはなるし、増え続ける煙鬼によって人間側も手一杯になる。
「では行け」
『ははっ!』
羅刹に命じた獅子鬼は、自身が使役する煙鬼達にも、御殿場市の外へ向かうように念じた。
すると蜃の世界の住人達であり、過去に煙鬼と化された人間の怨霊達が数千体、フラフラと四方八方に散っていった。
それらの服装は、古い物もあるが、最近のものもある。富士霊園や小山町、御殿場市など、獅子鬼が煙鬼を増やすには、充分な機会があったのだ。
煙鬼達は、元は普通の人間だ。
そのため妖気が小さく、地続きの場所しか移動できない欠点もある。
だが妖気が小さいからこそ、倒されても呪力を供給する獅子鬼にとっては痛手にならない。そして獅子鬼の身体に、霊体の一部を残しているため、呪力を与えれば復活させられる。
倒されても突撃を繰り返させて、新たな煙鬼を増やしていけば、無数に増えていく。
それから数時間も経つと、御殿場市の周辺から獅子鬼に向かって、新たな気が流れ込み始めた。


























