12 ムーラン・ド・ラ・ギャレット ⑭
穂高燿を、目の前のこの男を超えなければ、きっといつまでも私は『私』を始めることができない。始まりがここだったとしても、歩き続ける中で失ったものも、自ら捨てたものも……そして、新しく手に入れたかけがえのない大切なものがある。その全部をなかったことにして、無邪気に星を追いかけていた子供の頃に、戻れるはずもない。どのみち、戻りたいなんてこれっぽっちも思っていない自分がいることを、今更のように気付かされた。
それと同時に、この不器用な師匠が、私に何を伝えようとしていたのか……そのシンプルすぎる答えに行き着いて、思わず笑ってしまいそうになる。
「決めたわ。私は、私のやりたいようにやる。桜花賞に通りやすい対策なんて、クソ喰らえよ。自分の一番好きなもの、描いて提出する」
そう、宣言してしまえば、何かが詰まっているような感覚の続いていた胸が、急に軽くなって自然と笑顔がこぼれた。
最後の仕上げに入っていた穂高燿は、私の言葉を聞いてか……それとも相変わらずの天然っぷりを発揮して、自分の作品の出来に対してか。それでも確かに、満足そうに頬をゆるめた。
「そうするといい……その方が、きっとずっと今のお前らしいよ。大衆ウケなんて狙わなくたって、お前の見ているものは十分に美しいだろ。よし……できた」
何か大事なことをサラリと挟みながら、彼は筆を置いてクルリとイーゼルをこちらに向けた。
そこに描かれた私は真剣に宙を見つめて、描くべき何かを探し求めているように、鮮やかな青の絵の具を走らせていた。それでもその横顔はどこか夢見るように優しさに満ちていて、それこそ『おえかき』をしている子供みたいに無邪気で楽しそうで。誰かの声に、頷いているかのような首の傾きだけで、隣にいる梓の声や、灯センパイと結センパイの柔らかい笑い声が聞こえてくるような気がした。
この男の目に、私はこういう風に映っているのだ、と。そう理解した瞬間に、言葉にしがたい愛しさを、その絵に感じた。尊くて大事なものに触れるみたいに、こんな風に優しい表情で、手付きで、私が私の『世界』を描いているように見えたのだと。
誰より尊敬して、誰より軽蔑して、誰より憎んで……それでも、誰より焦がれたその人が、この瞬間の私を世界に留めたいと思ってくれたことが、何よりも嬉しかった。
「お前の描く世界が、好きだよ。八神」
描きたてのキャンバスに、あふれそうな涙をこらえながら、その言葉を心の一番大事な場所に刻んだ。私も、私の描く世界を愛していると、胸を張って言える日が早く来ればいい。
「ありがと……『先生』」
指先の隙間からこぼれてしまいそうな感情の一つひとつを、忘れてしまわないように大事に大事に拾い上げて。この日、私は、あの日の憧れに別れを告げた。
*
柔らかなうろこ雲が、高くなり始めた空を静かに埋めていく。
夏の日差しよりもずっと優しい陽の光が、無人の美術室を穏やかに照らしていた。
そこにガラリと扉を開けて、力強い足取りで入ってくる少女が一人。彼女がいるだけで、パッとその場が華やぐような空気をまとって、制服のスカートが眩しくひるがえる。
手には大きなカバンが一つ。小さな手が、重そうなそれを机の上にそっと降ろし、勝手知ったる動きで中身の道具が魔法のようにあれこれと並べられていく。
壁に立てかけられて眠っていたイーゼルが、パチリと目を覚まさせるように広げられ、乾燥棚で主の帰りを待っていた描きかけのキャンバスが、誇らしげに掲げられた。
満足そうに頷いた少女が、簡素な木の椅子に腰掛けて腕まくりをしたところで、先よりもずっと控えめな音を立ててまたドアが開く。
柔らかな足音で、それでも躊躇なく美術室に踏み込んだ黒髪の少女は、先客の姿に目を細めて笑う。交錯した視線は一瞬、それでも、それだけで充分だった。
手ぶらのまま先客に歩み寄った少女は、そのままクルリと背を向けて少し離れた位置の椅子に腰を下ろした。ちょうど二人、背中を預け合うような姿で。
時が止まったような部屋の中で、どちらからともなくその手を掲げた少女達は、たちまち目の前の世界に没頭していった。かすかな呼吸と、心地のよい熱と、時計の秒針だけが世界の全てになる。
二つの指先が、色彩を、未来を、願いを紡ぐ。
季節は巡る。かつて全てが失われた運命の冬が、いま目覚めようとしていた。
*
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