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12 ムーラン・ド・ラ・ギャレット ⑫

「ん、助かる」


 そう言いながら、テキパキと紙パレットと油壺を準備して、あっという間に配置についた『芸術家』の後ろ姿を見て、私は思わずボンヤリと立ち尽くしてしまった。


「どうした?好きなトコ座れよ。出来れば、俺の手元が見えた方がいいだろうけど」

「……何するつもり?」


 分かっていながら、おずおずと恋する乙女みたいに聞かずにはいられない。彼は意外なことを聞かれた、とでも言うように目を瞬かせて、珍しくニヤリと笑ってみせた。


「美術室ですること、なんて言ったら一つだろ?」


 そのドヤ顔が、あまりにもウザくて、私は一瞬で冷静になった。


「……いつも寝てるじゃん」

「……そうなんですけどね。ちょっとは格好つけさせろよ」


 ガックリと肩を落とすしょぼくれた横顔をジットリ眺めながら、やっぱりさっきのは幻覚だったんだと自分に言い聞かせた。これで、いい。こうやって憎まれ口を叩いてるうちは、まだ私らしくいられる。認めないで、いられる。


「ともあれ、俺は口でゴチャゴチャ説明すんのは苦手だし、他にやれることも思い付かないんでな。お前には描く過程まで含めて、絵を贈ろうと思う。テーマは肖像画だな。お前、肖像画好きだったろ?」

「なっ……好きとか嫌いとかって問題じゃないでしょ」


 まあ、一番得意なフィールドだっていうのは、確かだけど……なんて思いながら、今すぐ叫びだしそうなくらいに情緒不安定な心を抑えつける。


(だって、あの穂高燿が私のために絵を描いてくれるなんて)


 完全に乙女ちっくな思考回路が、自分でも気持ち悪いくらいグズグズに溶けていく。表情に出てくるな、もう一人の私。


「そもそも肖像画って言ったって、誰をモデルにすんのよ」


 一瞬だけ、また鳩みたいな間抜け面を見せた男は、首を傾げて爆弾を落とした。


「いや、お前だけど?」


 サラリと告げられた言葉に、どれだけ目の前の鳩面をはたき落としてやろうと思ったか分からない。


「はあっ?モデルなんか出来ないし、しないわよっ。アンタに何時間もガン見されながら、身動きできないでジッとしてるとか、どんな新手の拷問よっ」


 今まで押さえつけていたアレコレが、パニックになって噴き上がる。


「いや、落ち着けよ!お前には俺の手元見てろ、って言っただろ。たまには黙って、素直に、人の話は聞いておけ!仮にもお前にとって、師匠なんだろうが、俺は!」


 その一言で、私は自然と口を閉ざしていた。ストリ、と椅子に腰を下ろして、どうして自分がこんなに従順になっているのか分からなかった。


 それでも、そうだ。認めるしかない……この瞬間を、夢にまで見ていた。間近で穂高燿の『本気』が見られるなら、何を失ったって構わないとすら思っていた。いま、この人は……少なからず私が憧れて追いかけていた姿とは変わってしまっていても、紛れもなく穂高燿その人で、私の担任で、師匠で、目の前で生きていて。


 この短い人生を賭けて追いかけてきた遠い日の憧れが、いま私のために言葉をくれて、私のために何かを伝えようとしてくれているんだと、遅すぎる実感になってぶつかって来た。

 彼は、急に大人しくなった私を見て、しばらく戸惑うように視線を揺らしていたけれど、やがて筆を取ってキャンバスに向き直った。



「お前は、好きにしていていいから。モデルは『()えてる』」

「え……」



 見たこともないくらい、優しい顔で笑ったその人は、憎らしいくらいの鮮やかさで三本指を立ててみせた。



「三時間、俺にくれ」



 空気が、変わる――



 ゾクリと、その横顔に思わず鳥肌が立つのを感じた。呼吸も許されないくらいの真剣さで、彼は美術室の『ある一点』を見つめていた。その視線の先に、ふと気付いて全身がカッと熱くなる。そこは芸術部の活動の時に、私の定位置になっている席だった。


(『私』が、視られている)


 いまこの瞬間の私には、視界の端もかすめていないはずなのに、まるで心臓の奥底まで見透かされているような視線の圧を感じる。過去を通して、私が暴かれていく――


 その感覚に、恥ずかしさに、耐えきれなくなった時、ふとその視線が真白いキャンバスの上に落とされた。全身が強張るくらいの緊張から解放された私は、思わずへたりこんで息を吐きそうになるのを必死にこらえて、その指先が動く時を待ち続けた。


 きっと、数秒も間なんてなかった。無造作にポケットへと突っ込まれた手が、特に探ることもなく目当ての絵の具を取り出して、流れるような動きでパレットに乗せる。絵の具を含ませた筆が、フワリと最初の一筆になって置かれると、そこからは文字通り息吐く間もなかった。


 いつも授業で見ていても未だに信じ難いのは、一度として動きが止まらないこと。絵の具を出すタイミングも、筆をキャンバスの上に置く位置も、重ねる色合いも構図も何もかも……最初から決まりきっているみたいに、予定調和の作業を進めているに過ぎないかのように、(なめ)らかで滞りなく白い板面が埋められていく。



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