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12 ムーラン・ド・ラ・ギャレット ⑨

「……それ言っちゃうのは、多分ルール違反なんじゃないかと思うんだよな」


 先生の言葉に、首を傾げる。我々の間に、いつ規則が出来たと言うのだろう、と。


「だってな……お前らってさ、割と最近は仲が良いけど、根本的にはライバルだろ?」

「はあ」


 間の抜けた相槌(あいづち)を打つ私に、先生は焦れったそうにまた頭を掻いた。


「ライバルに自分のカッコ悪いとこ、指摘されてるのとか見られるの……イヤじゃね?」


 私はポカンと思わず思考をフリーズさせて先生を見上げた。


「それだけ、ですか?」


 まさか、これだけもったいぶって、わざわざ奏と私を別々に呼び出した理由がそれだけだと。


「まあ……それだけ、だけど」

「ぷっ……くはははっ」


 先生は、唐突に笑い出した私に一瞬だけ目を丸くして、次の瞬間真っ赤になって怒った。


「くそ、笑うなよ!うわ、お前ら相手に気遣いなんかした俺がバカだった……普通、思春期ってそういうもんだろ。違うのかよ、違うんだなっ?畜生、恥ずかしい……」


 顔を覆って呟く先生に、この人を師匠に選んで良かったと思う。ちゃんと、私達自身を見てくれている……今なら最初の言葉通り、奏には必要のない工程なのだと分かるから。


「あぁもう、次行くぞ次っ!」


 ぶっきらぼうに言って歩き出した先生の後を、私は慌てて追いかけた。


「まだ次があるんですか?」


 正直ここまででも、かなり芸術作品の過剰摂取なのだけれどと思いつつ口にすれば、先生が意地の悪そうな表情で振り返る。


「んーそんなこと言っちゃって良いのか?何て言ったって『これ』だぞ?」


 そう言って、無造作に手を振った先生が、目の前の光景に呆然と立ち尽くす私を見て楽しそうに笑った。


「分かるだろ、お前なら」


 見たことのない、絵だった。それでも、誰が描いたのかなんて一目で分かる。


 私がフィールドにしているのは墨を使った現代アートだけれど、曲りなりにも墨を画材として扱う身なら、誰もが憧れ頂点と認める『生きる伝説』の画家。


李翁(りおう)の水墨画」


 魂が抜け落ちたように呟いて、答えは返ってこないものの、それが正解だと理解していた。彼の作品は何度も目にしている……作中に墨だけでなく、もう一色だけ深い青を取り入れるのが特徴。


 ただ、そういう表面的な作風だけでなくて、けぶるような空気の流れや、墨と水の持つ特性を隅々まで活かした透明感のある筆使い、無闇に使うと画面全体の持つ静寂を壊しがちな差し色が、少しの苦労も匂わせない自然さで作品全体を神秘的にまとめ上げる。まるで、この世のものではない仙人が筆を取ったのではないかと、錯覚させられるほどに。相変わらず、溜め息も出ないくらいに圧倒させてくる……ただ、問題は。


「何故、李翁の未発表作品が?」

「あ、ここ本人のアトリエだから。これも描きかけだろ」


 よく見ると、いつも端的に『李』と入れられているサインがどこにもない。目眩がした。


「ほ、ほほほほほほんにん」

「落ち着け神代、ナントカ族の族長みたくなってるぞ」


 先生が何やら意味の分からないことを言っているのが、全く耳に入ってこない。先生をガタガタと揺さぶりたくなる青木君や奏の気持ちが、いま初めてよく分かった。


「いつ、どこで、どのようにお知り合いにっ。どれだけの大枚を(はた)いたのですか。それともやはり何か法に触れるようなことを」

「いやいやいや、普通にネットで知り合っただけだから!日本語の上手い、普通にいい爺さんだぞ?お前のことも知ってたし、前途有望な若者だって褒めてたし。このアトリエだって、弟子だから見せていいか?って聞いたら、快くオーケーくれたぞ?」


 私は歓喜に打ち震えた。ついさっき、先生から称賛をもらって幸せの絶頂にいる、なんて思ったことは遥か記憶の彼方だった。


「あの李翁が、私を『前途有望な若者』だと……」

「おーい、神代サン。浸ってるのは良いけど、そろそろ戻ってこいよ、ちょっと真面目な言付けあるから」


 先生の言葉で深く息を吸い込むと、軽く酸欠気味だった頭がようやく回って現実に戻ってくる。ふわふわとした足元が落ち着いて、私の精神が安定したことを見てとると、先生は静かに口を開いた。


「李翁からの伝言だ……『私もまた、挑み続けている。君がこの作品に何を見出してくれるのか、楽しみにしている』だとさ」


 直接お会いしたこともないというのに、すぐそこに李翁が立ってこの作品と向き合っているかのような気がした。今一度、目の前にあるまだ世に出ない幻の作品を見つめた。


 それは李翁が得意としている山河などの伝統的な風景の絵ではなく、数多(あまた)の花が咲き乱れる園に立つ、一人の女性を主題とした絵だった。風に揺らぐ花の香りすら感じられるような、繊細な花びらに()らされた技巧はもちろんだが、やはり人が一人いると、その存在感に引き寄せられる。匂い立つような艶やかさと、透明な純粋さを併せ持った女性……この世のどこにもあって、どこにもないような美しさ。彼はこの光景に、何を見出したのだろう。


 私は、何を見出せるだろう。


(この世のどこにもあって、どこにもない場所……)


 ああ、どこかで聞いたことのあるフレーズだと思えば、穂高燿の作品に通底するテーマだった。私を救った色彩。彼の瞳が見た世界。私の瞳が見た世界。たったこの半年で私が得た、かけがえのない時間。今日、こうして歩いてきた長くて短い旅に、過ぎ去っていった永遠と刹那を繋げる芸術たち。李翁の言葉。いま、目の前にある一幅(いっぷく)の絵。



 私が向き合うべき、無限大の空間。



 カチリ、と。



 求めていた最後の欠片が、私の心のあるべき場所を埋めた。



 *




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