12 ムーラン・ド・ラ・ギャレット ⑧
「どうして、奏をここに連れて来なかったのですか」
先生は目を瞬かせて、言うべきかどうしようか迷うような素振りを見せた。こういう時、目を逸らした方が負けだということは、良く知っている。しばらく見つめ続けていると、先生は根負けしたように息を吐いた。
「もう、立って大丈夫か?」
「はい」
私が頷くと、先生は立ち上がって私を振り返った。
「少し、歩こう」
自然と足を踏み出す足取りに迷いはない。何歩歩けば路地にたどり着くのか、この景色のどこからどこまでが美術室の光景と『シンクロ』してるのか、何もかもを把握してるかのように、一度も机とぶつかることのない、優雅な散歩だった。
「さっきも言ったと思うが、この旅は八神に必要のないものだと思ったからだ。その答えじゃ、足りないのか?」
「……それは、奏には既にこうした様々な芸術に触れる機会が足りている、という意味でしょうか?」
私が問いかけると、その解釈はあまりにも的外れだったのか、一瞬だけキョトンとした表情を浮かべた。
「あー……そういう意味なら、お前も八神も経験なんざ全く足りてないだろ。他人の作品を見なさ過ぎだ。でもそれは、努力と年数が解決してくれることだし、永遠に解決できない問題でもある。だって、毎日のように世界中の芸術家が星の数ほど作品を生み出してるんだぞ?どこかで妥協は必要だ……って、そういう話じゃなくてな」
先生は頭をガシガシと掻きながら、目の前の角を左に曲がった。不意にパリの町並みが消えて、眩しいくらいの太陽ときらめく海が私達を出迎える。向こうに見える山の連なりと、町のそこここに見える花飾りで、何となくハワイにいるらしいと察する。この光景なら、何かで見たことがある。恐らくワイキキビーチ、とやらだろう。気分だけでも南国に行きたかったんだろうか。
「お前は今、間違いなく日本を代表する芸術家の一人だ。そのことは自覚してると思う」
私は迷いなく頷いた。その称号が持つ責任はあまりに重いけれど、私が背負うべきものだという自負と覚悟はあった。
先生が言葉を落としながら、何かの画廊の前を通り過ぎた。かなり観光客向けの展示だけれど、ワイキキの海を始めとする自然を描いた作品群は素直に美しかった。
「正直に言えば、技術力はまだまだ伸びしろがある。他の水墨画の画家は勿論だが……ジャンルは違うが、技術的な作品の完成度で言えば、八神の方がお前よりも先を行ってる」
一瞬だけ言いよどんだ言葉の端に、だから先生は答えることに迷っていたのかと理解した。むしろ、率直に言ってもらえなければ、いつまでも堂々巡りになっていただろう。私自身、これからの時代にジャンルだの専門だのと言った言葉が、どれだけ無意味なものになりつつあるのかは理解していた。そして何より、奏との実力の差も。
また、世界が色を変える。ついさっきまでも眩しいくらいの太陽だと思っていたけれど、ハワイのそれよりもジリジリと照りつける光に、目を細めた。数え切れないくらいの小さな板に貼られた布が、余らせた端を洗濯物のごとく風に揺れさせている。そこに独特なタッチで描かれた、植物や動物の姿に記憶の底がまたたく。これなら授業で先生が扱っていらっしゃった……アフリカ独自のポップアート、ティンガティンガだ。
「それでも」
その布の群れを見上げながら、先生がポツリと呟いた。
「それでも、お前の『アート』は俺たちの心に響く」
ずしり、と。
その言葉が、胸の奥に落ちていく。いま、どうしようもなく泣いてしまいそうだと、そう思った。たった一言、本当にそれだけのことを。あなたにそう認めてもらえることが、どれだけ価値あるギフトなのか、きっとあなたは知らない。
「お前はお前の描きたいものを突き詰めながら、他人から……世界から求められるものと、どうやって噛み合わせていくのか、そのバランスがきっちり取れてる。それは多分、お前の心に迷いがないからだと思うんだよな。今のお前は、理想的なコンディションにあるし、それを壊したり揺るがしたりする必要があるのかどうか、俺には判断できない」
それは私の人生で、私の『アート』に問われるべきことで、私が考えていかなければならないことだった。だから、答えを求めることはしない。そのことは先生も分かっているのか、私の返事を待つことなく言葉を続ける。
「でも、だからこそ……お前がどこに立っているのか、立とうとしているのか、知っておいて欲しかった」
風が、強く吹いている。アフリカの太陽に照らされて、誇らし気に鮮やかさを増していくティンガティンガの群れが、海原を行く船の帆みたいに風を受けて膨らむように見えた。
「お前が立つべき場所は、ここだよ。神代……この、世界だ」
全身に、その言葉の重みがじわりと染み渡り、指先まで燃やし尽くすような熱が駆け巡る。先生が何を与えてくれたのか、何を与えようとしてくれているのか、この手にそれを受け止めた瞬間から、どうしようもなくこの世界の総てが愛しい。
これは日本だとか外国だとか、そういうスケールの話ではなくて……紛れもなく、いま目の前にあるこの『世界』の話。穂高燿の見つめる世界と、重なるようで重ならない、私の目と感覚で受け止めた、この広くて美しすぎる世界の話だった。
「ありがとうございます、先生」
「ん」
自然とあふれた言葉に、照れ臭そうな表情で先生が短く返事を返した。
「そう言えば」
ふと思いついた私は、まだ一つだけ残る疑問を口にする。
「結局、奏に足りないものなどあるのでしょうか?」
「……ハァ」
まだそれを聞くか、というような呆れた感じで溜め息を吐く先生に、それでもここばかりは譲れないと見つめ返す。今の私にとって、やはり目下の関心事は奏の芸術がどこへ向かうのか、という一点に尽きるのだから。




