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12 ムーラン・ド・ラ・ギャレット ⑥

「不思議と、気分が悪くなりません……いつもなら『色酔(いろよ)い』してるはずなのに」


 これだけ感情の塊のようなものにぶつかって来られれば、感情が色で見えてしまう私は気分が悪くなってしまうのが普通で。それなのに大丈夫でいられるのは、きっと感情と色がちぐはぐになっていないからだ。衝動のままに重ねられた色が、それ故に私の感覚を守ってくれていた。


「そうか、そりゃ良かった」


 先生は優しく笑うと、何かを指し示すように手を広げて空中に滑らせた。


「今日は、肩の力抜いて楽しんでけよ。社会科見学とは言っても、誰に迷惑かけるワケじゃないし、そんな堅苦しいものでもない。何せ、主宰(しゅさい)が俺だからな……さて、次行くぞ」


 先生がそう告げた瞬間、名残惜しさも置き去りに世界が色を変えた。つい先程まで真っ暗であったはずが、心なしか朝もやのように闇の色が柔らかくなっていた。どこととなく、空気がさっきまでのロサンゼルスよりは慣れ親しんだ、都会のものであるような感じがする。レゾナンスは匂いまでは伝えてくれないはずであるのに、おかしな気分だ。


「ほい、言わずと知れた大都会ニューヨーク・シティな。時刻は夜明けのちょっと前、ってとこだ」


 そうは言われても、連れてこられた場所は路地裏の、それも恐らくはゴミ捨て場の前だったりする。日本ではあまり見かけない感じの、大きい鉄で出来たゴミ箱と言うよりもコンテナみたいな、いかにも悪臭を放っていそうなものだ。


「ここは正直、運だったりするんだが……ああ、来た来た」


 安心したような先生の声に視線を向ければ、路地の向こうから誰かが走ってやって来るのが見えた。黒いシンプルなジャージを着た男性で、早朝のランニングという出で立ちだけれど、フードを目深(まぶか)にかぶっている所為でどことなく怪しげである。


 その男性からはもちろん私達のことなど見えていないはずだが、彼は一瞬だけチラリと人目を窺う様子を見せて、注意深く見ていなければ気付かないくらい僅かに指先を動かした。あれは、レゾナンスの操作だ。


「っ……」


 一瞬で目の前の壁に展開された『アート』に、思わず息を呑んで後ずさる。これは、誰がどう見ても間違いなく芸術だと頷くだろう……絵が貼り付けられている場所が、ゴミ箱の真隣だという点に目を瞑れば、の話だけれど。


「運がいいな、神代。あれは多分『ゴミ捨て場のダ・ヴィンチ』って異名を持ってるパフォーマーだ。作品の貼り付けを絶対に他人任せにしないで、自分でしか貼らないから、ニューヨーク中探しても彼の作品を見れる場所は少ないぞ」

「ゴミ捨て場の、ダ・ヴィンチ……」


 それはまあ、大層な名前が付けられたものだと思う。ただ、そうとしか表現ができないくらいに、彼の作品はかの有名な画家のタッチに酷似していた。寡聞にも、レオナルド・ダ・ヴィンチに、いま目の前にあるような作品があった記憶はないので、描き方を真似ただけのオリジナル作品ではあるのだろう。完成度が高すぎるけれど。


「ニューヨークは、街の景観を守るために……って言うよりも、面倒事を防ぐためにもレゾナンスのストリートアートが割と厳しく規制されてるんだよ。頻繁に届け出して、毎回ゴーサインが出ないと掲示できない。それでも、日本ほど厳しくはないけどな……まあ、そんな事情もあって裏路地で半分非合法に貼られるヤツは、イタチごっこみたいな感じで剥がされるけど、次の日には元通り。内容も風刺画が多いな。時代が逆戻りしてるみたいに」


 確かに、言われてみれば描かれているのはダ・ヴィンチと言われてパッと思い浮かぶような宗教的なモチーフではなくて、多分に世俗的な人々であるように思える……正直に言うと、政治とか国際情勢には全く詳しくないので、何が風刺されているのかは全く分からない。


 それでも単純に有名画の模倣ではないことくらいは、初見でも少しは理解できた。この画家のこめたメッセージこそが、人々の心を動かすんだろう。


「ここの路地は、警察からも比較的緩く見逃されている所だからな。まあ、それでも昼頃には消されるから、今だけの贅沢だ」


 先生がしみじみ呟いた言葉に、私は思わず口走っていた。


「奏にも、見せられたら良かった」


 先生は驚いたように目を瞬かせると、少し考えてからゲッソリした表情を浮かべた。


「……いや、アイツは多分、こんな旅に連れ出したら『余計なことするんじゃない』ってブチ切れると思う」

「そう、でしょうか?」


 私が首を傾げると、先生はどこか困ったように苦笑する。


「ま、八神には八神の学び方がある、ってことだよ。だから今日のツアーは、お前だけだ」


 先生はそう言うと、無造作に手を振った。


「きゃっ」

「あ、着地点間違えたわ」


 思わず情けない悲鳴を挙げてしまったのは、そこが水の上だったからだ。唐突に足元に地面がなくなると、やはり未だに驚いてしまう。




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