12 ムーラン・ド・ラ・ギャレット ⑤
奏の気持ちはありがたいものの、腕力的に敵わない……はずだ。どうだろう。先生は非力でいらっしゃるから、もしかしたら奏の方が強かったかもしれない。警察の方などに取り押さえられたら、その『神の腕』がポッキリ折れてしまう可能性は高い。それは困る。
「待て、誤解だ。リアルに俺が社会的な死を迎えるから、やめよう。やめてください」
力強く頭をお下げになった先生に、やはり私の勘違いだったのかもしれないと考え直す。
「……では、どのようなご用向でしょう?」
「この前、師匠として出来ることを考えておけって八神が言ってただろ。色々と考えたんだが、これくらいしか思い付かなくてな……そんなワケで、社会科見学に行こう」
まず、先生が八神の言葉を正面から受け止めて、きちんと考えていて下さったことに驚きを禁じ得ない。結局の所、口ではあれこれと仰いながらも、真面目な方なのだと思う。
ただ、社会科見学とは、と首を傾げる。いつもならば奏が色々と替わりに話してくれるので、私と先生では上手い具合に会話が進まなくて、こういう時は少し困る。
「この時間からですと、少々難しいのでは……?」
「この時間だからだよ。大丈夫だ、いつもの部活終了時刻より前には終わる」
そして、会話は噛み合わない。しかし、恐らくこれもまた、深いお考えあってのことと頷く。
「よし、んじゃ行くか……『シンクロ』」
なるほど、先生が鍵を掛けた謎が解けた。美術室に二人きりで、何もない空間を見つめてボンヤリしている所などを他人に見られでもしたら、それこそあらぬ疑いをかけられかねない。先生には心の中で、うっかり変質者と取り違えそうになったことをお詫びしておこう。そう小さく頷いて、私もヘッドセットに手をかけた。
「シンクロ」
目の前の少し薄暗い美術室が、他の世界から侵食されていくかのように、ジワリと色を変えていく。この感覚には大分慣れたと思っていたけれど、次の瞬間視界に飛び込んできた光景に、思わず目を見開いていた。
暗闇の中で浮かび上がる、色。色。色。その暴力的な組み合わせとエネルギーが、私の共感覚に雪崩込んでくる。感情のままに、ペンキをぶつけたような衝動的な作品……それを作品、という言葉で定義することが正しいのかすら分からなかった。
「ここに最初に連れてくるのもどうかと思ったんだがな……まあ、インパクト重視で。世界一周のぶらり旅、ストリートアート編は自由の国・アメリカだ。それもLAの、ちょっと……いやまあ、かなりヤバめの界隈ではあったりするんだが。そこのリアルタイムのストリートビュー、それも時間帯は深夜で個人所有のカメラ目線だから、一生でも見れるのは今だけだ。間違っても現地に行ってみようなんて思うなよ?あと、一応オフレコな?」
私はその言葉を聞いて、少なからず先生から距離を取った。
「何か法に抵触するようなことを……それとも、実はそのスジのお方で」
「やめろ、来栖の小説の読み過ぎだ。このビュー見るための鍵くれたヤツとは、ネット上で知り合ったんだよ。断じて法には触れてないし、ここには行ったこともない。多分、俺が行ったら一瞬で身ぐるみ剥がされる系ストリートだって、そいつに言われたし」
それは、どんな系統のストリートなのだろう、と思いつつも先生のご友人(?)とやらが仰いたいことは何となく分かる。筋骨隆々であったり、逆に怖いくらいゲッソリ痩せていたり、入れ墨だらけだったりと、とにかく目付きの鋭い方々が行き交い、何やら怪しげなものを吹かしていたり、何やら怪しげな……あまり見ないようにしておこう。
そういう見慣れない雰囲気の人々に目を惹かれるのももちろんだったけれど、それよりもずっとこのストリートアートの方が私の心を掴んで離さなかった。壁だの床だのゴミ箱だのに、文字通り縦横無尽に描かれた作品群は、私が知っている時たま壁にスプレーで描かれた醜悪な落書きと同じ種類のものだとはとても思えなかった。
明らかにアングラなストリートの雰囲気に、強くマッチしているどころか、空間そのものをそのアートこそが創り上げているような感覚すらする。明らかにタッチもクオリティも異なる個々の作品が寄り集まったもので、そこに統一性だとか思想だとか、そういうゴチャゴチャした面倒くさいものはなくて、それなのに一つの生き物のような集合体となってこちらを呑み込んでくるような印象。
先生がどうして私をこの場所に連れて来たのか、これを目の当たりにしただけで少しだけ理解できるような気がした。
「……まあ、こういうものを見せるのが『正しい』のかは分からないが、きっと神代なら何かを受け取ってくれると思ったんだ。だから、連れてきた……どうだ、ストリートアート発祥の地と言われる本場LAのご感想は」
私はもう一度、目の前の壁画を見上げた。真夜中の暗い通りの中で、おどろおどろしく浮かび上がる、激しくて時に冒涜的な作品の数々は、私の知っているものとはまるで違う形をしていても、それでも確かに『芸術』だった。




