12 ムーラン・ド・ラ・ギャレット ③
一つ目の問題は『俺はこの先どうしたいのか?』
実のところ、俺は俺自身の身の振りようを決めかねていた。何だかんだ言って俺のことをずっと気にかけてくれていた元担任……今の副校長なんか『絵が描けるようになった』って報告しただけでガラにもなく泣いて喜んだし、昔から世話になってる数少ない画壇の先輩(かなり高齢のジーさんだけど、俺より元気)は『余計なことグダグダ言うヤツがいたら黙らせとくから、さっさと戻って来い』なんて頼もしすぎることを言ってくれた。
ただ、本当にそれでいいのか……本当にそれが、俺のやりたいことなのかって迷いはある。かつての俺だったら喉元すぎれば何とやらで、筆を握ることができるようになった瞬間に、何もかも投げ捨てて芸術の世界に逆戻りしていたに違いない。
だけど今は、芸術以外の全てを省みないで没頭していたあの頃に、ひとっ飛びで戻れるほど身軽じゃなくなっていた。それを『不自由』と表現する人もいるのかもしれないけど、どれもこれも今の俺を形作っている大切なものだから、今更捨ててしまいたいなんて思えなくて……自分が何もかも手に入れて、全てを守り切れるほど器用な人間じゃないことが分かっているからこそ、慎重と言う名の臆病さでグダグダ考えずにはいられない。
とりあえず、二つ目の問題にいこう。こちらは、もっとシンプルだけど責任の伴う問題だ。ついさっき浮上した、というか本当はもっと早く向き合うべきだったこと……『八神と神代のために、何ができるのか?』
「ねえよ、そんなもん……」
八神に聞かれたらぶっ飛ばされそうな本音が、思わず溜め息混じりにこぼれる。だってそうだろう……面倒だとか、決してそういうことではなくて。いやそれも少しはあるけど、二人に対して返した言い訳じみた俺のポンコツさに、一つのウソもなかった。つまり、俺は紛れもないポンコツだということだ。分かり切っていたことではあるが。
八神と神代のことに関しては、少なからず教師としての職分を踏み越えようとしている自覚はある。自分に対してだけは、正直に認めておこう……あの二人は、特別だ。それは俺個人にとってでもあるし、リアルに世界の財産としての話でもあった。
あの天才達を、俺が一歩間違えるだけで歪めてしまうかもしれない。その責任は、あまりにも重くて、脇目も振らずに逃げ出してしまいたくなる。少し前までの俺なら、確実にそうしていた……現に、今の今まで逃げ続けていたワケだし。
そんな俺が何を言っても説得力なんてないかもしれないが、真剣に二人と向き合って、その将来のことを考えているつもりの今でさえ、俺なんかがヘタに手を出さない方が二人のためなんじゃないか、という情けない結論しか導き出すことができずにいる。
(事実、本当に何かあるか……?伝えてやれる技術なんてねえし、桜花賞を獲りにいける秘策があるなら、誰だって喉から手が出るほど欲しいワケで)
今でこそコンペだの展示会だのがあふれている世界に、誰でも簡単にアクセスできるようになって存在感も薄れたように思えるが、それでも桜花賞は芸術の日本一を決める場所だ。誰もが『この作品は素晴らしい』と理解できるもの、つまりは普遍的な美にあたるものが基本的には追求されていて、該当作品がなければアッサリとその年の桜花賞はナシという決断が下される。
まあ、かの有名なモナリザだって『嫌い』って人はもちろんいるワケだし、あくまで普遍的って言うのは大多数を示すことになるんだが。俺はかつて、その頂点に一番近いと期待されて、ものの見事にその期待を裏切って逃げた。俺が芸術を捨てたのは、かつて友人だった一樹に盗作されて裏切られたからじゃない……芸術家として、完膚なきまでに俺が敗北したからだ。
例え盗作騒ぎになってケチがつこうが、桜花賞の審査員である筋金入りの芸術バカどもは、その作品が本当に『日本一』で『普遍的』だと思えば、一度出した結論を取り下げるなんてことはしない。そんなことしたら、自分のプライドも面目も丸つぶれだからな。
それでもあの年の桜花賞は、俺に決まっていたものが『該当者ナシ』になった……それは、審査員の誰もが『棗一樹の作品こそが優れている』と認めたってことだ。
(ああ、そうか)
俺は、悔しかったんだ。他人の評価なんて必要ない、なんて嘯きながら、本当は誰よりも他人に認めて欲しがっていた。そのことに、あの瞬間に初めて気付いてしまった。認められて当然だ、なんて傲慢な思い込みで突っ走っていた自分が情けなくて、恥ずかしくて。そして、他人の評価が途端に恐ろしくなった。
俺の目は間違っていたんじゃないか、俺が美しいと思っていたものなんて、小手先の技術で誤魔化しているだけで、本当はみんなが美しいと思ってくれるようなものじゃないのかもしれない。俺の信じていた世界が、何もかも音を立てて崩れていくような気がして。




