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11 印象・日の出 ⑭

『私、この作品でアイツに『描きたい』って言わせられなかったら、学校辞()めるから』


 学園祭前日、作品の最終調整と確認を終えて、奏ちゃんが決意をこめた口調でそう言った。いつもなら、そういう言葉は止める灯ちゃんが、何も言わずに頷いた時の横顔がやけに印象に残ってる。


(ちゃんと届いたよ、みんな……)


 きっとそれぞれが、違う理由で先生の元に集まって、それでも出来上がったものはみんなが同じものを目指していたことを、証明するみたいな作品で。私達は『穂高燿』という人間の心を揺さぶりたかった。難しい言葉とか理屈を抜きにすれば、きっとそれしか残らない。


 一心不乱に筆を振るう背中を見つめて、いったいどれだけの時間が経ったのかも分からない。不意に、パタリと腕を下ろした先生が、魂の抜けたように立ち尽くした。先生の向き合うキャンバスには、その小さな四角い場所には収まり切らないほどの熱と色彩があふれていて、素人目(しろうとめ)にも少し荒っぽい出来だとは思ったけど、先生が何か大事なものを取り戻したことだけは理解した。

 ふらり、と。先生が、一歩後ずさって作品を眺める。


 引き止めなくちゃいけない、って。その瞬間、どうしてか咄嗟(とっさ)にそう思ったのは確かだった。どこにとか、何のためにとか、そういうのは分からなかったけど、本能的に先生がどこかに行ってしまいそうな気配を感じた。でも、そんな理性とか本能とか、面倒な言い訳とか……そういうものを全部剥()ぎ取ったら、そこにあったのはただ衝動だけだったんだと思う。


 どうしたら引き止められるだろう、なんて考えるまでもなく心が知っていた。そして、この『一歩』を踏み出したら、もう二度とは戻れないことも。私の恋が、ここで終わることも理解して……それでも。今この瞬間に、柔らかい心の何もかもを差し出して、置き去りにしていく覚悟で手を伸ばした。



「先生」

「……っ」



 先生の口から、声にならない声がこぼれる。



 心臓の音が、きこえた。力強く抱きしめた背中から、目の前のこの人がどうしようもなく動揺してるのが伝わってきて、こんな時なのに笑ってしまいそうになる。それなのに、代わりにあふれたのは涙だった。


 ()い焦がれた人が腕の中にいるのに、こんなにも近くて遠い。でも、そんなことよりも、ずっと……想像していた以上に、熱くてもろくて、この人も触れることのできる人間だったのだと、そんな(まと)はずれな感動を全身で感じて。



 何か伝えたい、と。伝えなければと、思った。



 きっといくつもの偶然が重なった出会いだった。あの日、私が美術室に筆箱を忘れたから。私が勝手に美術室に入り込んだから。先生が美術室に鍵をかけていなかったから。先生がシンクロのブロックをし忘れていたから。私が覗き見なんてしようと思ったから。


 最初は私のワガママで芸術部を動かし始めたけど、四人が集まって毎日が楽しくて……先生が近くにいて『来栖』って呼んで、ほんの少し言葉を交わすだけでこんなにも幸せで。私はもらってばっかりで……ううん、ただ黙って盗んでばっかりで。それでも、それを『(つぐな)い』じゃない、もっと暖かくて優しいもので返せたらいいのに。


 そう思った時、誰かにそっと耳元で囁かれたみたいに、ふわりとその言葉が胸に浮かんだ。いまこのシチュエーションには、ちっとも相応しくないけど、今日というこの日には絶対に必要な言葉だとどうしてか知っていた。



 それなら。望んでこの日、この瞬間に居合わせた私が言わなくちゃいけないことだ。



 小さく息を吸い込んで、スルリと抱きしめた腕をほどく。振り返る先生の目を見るのが、こんなにも怖いと思う日が来るなんて思わなかった。それでも顔をあげて、笑おう。震えるこの手で、そっとあなたの手を引き寄せて。まだ、この場所に、この世界に居て欲しいと、何も知らない子供のフリをしてねだってみせよう。




 愛しさも、寂しさも、あふれるようなこの熱も、何もかもをその言葉にこめて。




「おかえりなさい、先生」




 こぼれた涙と一緒に、初恋が泡になって、消えた。




 *




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