11 印象・日の出 ⑬
今から二年前、常磐学園にまだ芸術科がなくて普通科だけだった時には、公開授業の代わりに一日だけの体験入学って形で次の年の受験生達に対して学校紹介が行われていた。名前の通り、一日だけ常磐の生徒になったつもりで、授業とか給食とか休み時間を体験するイベントに、両親から勧められて私も参加していた。
正直、地元で一番の進学校でもある常磐の授業は難しかったし、みんなずっと常磐に入りたいって思ってる子達ばかりで話についていけなくて、一人ぼっちでボンヤリ休み時間を過ごしているうちに一日が終わろうとしていた。私自身は別に常磐に対する思い入れもなかったから、両親には悪いと思うけど、近所の公立高校に行けばいいかななんて思いながら。
最後の七時間目は授業の代わりに、一日の体験では補いきれないような細かい説明と質疑応答があって、メモも取らずに話を聞いていた私は、帰り道をトボトボと歩き始めてからようやく思い出した。筆箱を、学校に忘れてきてしまったことを。忘れた場所は、六時間目の美術室だってことだけは覚えていて、慌てて学校に走って戻った。
本当なら、学校に電話するなりしてまず相談するべきだったんだろうけど、すっかりパニックになった私は『こっそり取って帰る』という、普段の私なら絶対に考えもしない選択肢を選んでしまった。その時は専科の教室に生徒が勝手に入っちゃいけない、なんて知らなかったのはもちろんだけど、そんな風にいつもは体験しないようなイレギュラーが重なっていなければ、誰にも断らずに美術室へ入り込んだりしなければ、いま私はここにいない。
(誰かいたら、どうしよう……)
勢い込んで誰にも見つからないように美術室まで来たのはいいけど、急に臆病ないつもの自分が顔を出して、あの扉の前で立ち尽くしたのをよく覚えている。それでも、ずっとここに立っていて、誰かに見つかることの方が怖かったから、そろそろと扉を開けて中を覗いて……そして想像もしていなかった光景に、息を呑んだ。
見覚えのある白衣を着た男性が、たった一人でこちらに背中を向けて立っていた。その日の美術を担当してくれた先生だってことは、独特の白衣姿ですぐに想像がついた。でも、私が驚かされたのは、昼間には殆ど印象に残らなかったはずのその人が、目を離せなくなるくらいの存在感を放っていたことだった。
差し込む木漏れ日を受け止めるように両手を掲げて、何もない空間に向かって指揮棒を振るみたいに優美に宙をなぞっている姿は、レゾナンスに没頭して周りが見えなくなっている普通の人達みたいに滑稽には映らなかった。むしろ、それは洗練されすぎた美しさで、そこには何もないのに確かに何かがあるのだと納得させる力強さがあった。
綺麗だ、なんて。誰かを見て、生まれて初めてそんな感想を抱いたと思う。
彼が指揮する無音のオーケストラから、鮮やかな音楽が聴こえたような気がして……その人が生み出している世界を見たいと、唐突に思った。いつもなら、そんな覗き見みたいなマネはしないし、情報量が多すぎるからシンクロもなるべく切るようにしてるのに。
その瞳が、愛しげにそれでいて苦しそうに見つめる視線の先に、その虚空に何が見えているのかを知りたくて。だから私は、あの日『踏み込んで』しまったんだ――
『……シンクロ』
きっと一生で、この先何があっても塗り替えられないような罪深さをもった言葉を呟いて、私は決して許されないことをした代わりに、二度と巡り会えないような光景を目の当たりにした。そうして疑いようもなくその瞬間、恋に落ちていた。
こんなにも美しいものがこの世にあるなんて、知らなかった。言葉にならないくらいに綺麗すぎて、だからこそ孤独で、痛いくらいの寂しさに満ちた『光の庭』……この世界のどこにでも在って、どこにもない場所。絶対に手の届かないそれに手を伸ばして、折れてしまった翼を抱き締めているみたいに優しくて、悲しくて。
その世界を、もっとずっと見ていたいと願った。その目が、どんな風に目の前の世界を見ているのか、隣に立てば理解できるのかもしれないと。初めは好奇心、それから憧れと、未知の世界に対する冒険心。ただ、それが明白な恋心に形を変えたのは、その瞳が『寂しい』と叫んでいたからに違いなかった。
これは、何も知らなかった幼さが抱いた、分不相応な夢の話。
隣に立ちたい。傍にいたい。その『寂しさ』に寄り添いたい。言葉にすれば簡単そうに聴こえるのに、ただそれだけのことが、どれだけ難しくて途方もないことだったのか。まだ知らない子供の私が、無邪気な瞳で一歩を踏み出してしまった日の話だ。
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