11 印象・日の出 ⑪
海の底に潜る前は青く澄んでいた空は、日が傾いて少しずつ金色に染まり始めていた。俺が沈んでいたはずの海は少し遠くに離れて見えて、今は代わりに街が眼下に広がっている。指先を、足元を、遊ぶように鳥たちがかすめて飛んで行って、俺もここでなら飛べるのかもしれないと手を広げるだけで鳥の気分になれる。
一歩踏み出すと、空の階段を駆け降りるみたいに地上が近付く。少しの名残惜しさと、空を駆け抜ける爽快感に背中を押されて進んで行けば、不意に景色があまりにも見慣れたものに近付いていく。上から見ていたんで気付かなかったが、そこは確かに俺たちの住む街だった。
鮮やかな夕焼けの中で、音もなく雨が降り始めた。数え切れないガラスで覆われた駅前のビルが、いつもよりずっと穏やかな光を反射して、淡い桜のように色づいている。沢山の人と車の行き交う道路は、しっとりと雨を含んで生まれた水たまりに、燃えるような金色の空と雲の流れる世界を写し込む。いつもならキツいくらいの西日が柔らかく子供の頬を染めて、路地裏を行く猫の瞳にまできらめく宝石のような雨粒が光っていた。
(あ、れ……)
雨粒が頬にこぼれるみたいに、そっと。伝い落ちる涙に、戸惑いながら口を塞ぐ……そうでもしないと、ふとした瞬間に嗚咽がこぼれてしまいそうだった。
柔らかな霧雨に濡れた街は、金色から茜色に変わり行く世界の色彩を少しも損なうことなく輝いていて。俺たちの住む世界は、こんなにも優しくて美しかっただろうか、なんて。
悔しかった。切なかった。やりきれなかった。声をあげて叫びたくなるほどに。
俺の目は、こんな風に誰もが知っていて誰も気付いていない、美しいものを見つけるために開かれていたはずなのに。俺の手は、美しいものを描き留めるためにあったはずなのに。
「くっ……あぁ……」
抑えていたはずの唇から、言葉にならない痛みがこぼれる。
どうして忘れてしまっていたんだろう……どうして、こんなにも美しい世界から、目を背けていたんだろう。いつから俺はこんな風に、胸の奥から湧き上がるような衝動を失っていた?この先もずっと、こうやって生きていくのか?死んだように、ただ息をして……胸の中にある鮮やかな情景は、俺が筆を握る瞬間を確かに待ち望んでいるのに。
光の届かない水底で、太陽に焦がれていた時よりもずっと強く、ずっと切実に。いま、俺は確かに光をこいねがう『種』だった。
これが、お前たちの見出した世界か。
この瞬間に、指先をかすめていく光で確かに俺たちは繋がっていた。来栖が紡ぎ、八神が彩り、神代が照らし、灯が導いた……この旅の果てで。
(いま、世界が『シンクロ』している――)
その言葉が持つ、本当の意味にようやく触れた。だって、こんなにも胸が熱くて、苦しくて、何もかもがこぼれてしまいそうだ。
気付けば、俺は長く短い旅の始まりだった、美術室に独り立ち尽くしていた。走馬灯のように、パラパラと本のページが捲られる音が聞こえて、時間も色彩も何もかもが一瞬にして巻き戻される。最後に俺が握りしめていたエメラルドのカンテラを吸い込んで、何の変哲もない机の上にはポツリと一冊の本だけが残されていた。
『Storia della pioggia』
そうとだけ綴られた表紙を、大事に大事にそっとなぞる。
「……ありがとう」
何もかもをこめて静かに落とした言葉と混じり合うかのように、その本は淡くほどけて宙に溶けると、わずかなきらめきを残して消えてしまった。まるで、夢から醒めろと、告げるみたいに。
しばらくその場に立ち尽くしていた俺は、全身を駆け巡る熱に衝き動かされるようにして美術室を後にした。完全に忘れかけていたが、学園祭の真っただ中であったはずの廊下には、魔法でもかけられたかのように誰の姿もなかった。俺だけが、まだ夢の中を歩き続けているかのような感覚で、フラフラと根城である準備室のドアを開けた。
今この瞬間、学園祭とか、教師としての義務とか、立場だとか……そういう『余計なもの』が何もかも頭から吹き飛んで。何をすればいいのかは身体が知っていたし、何もかもを忘れてしまったつもりで全てを覚えていた。手は流れるような動作でイーゼルを組み立てて、指先は何号のキャンバスを自分が欲しているのかを、明確に理解して選び取っていた。
紙のパレットにイメージする色の絵の具を出しながら、自分が想像していたよりもずっと冷静なことを感じている……いや、きっと熱くなりすぎて、一周まわって冷静になっているだけだ。油壷を開けて、手近にあったペインティングオイルを注ぐ。どうせ、塗り重ねるつもりもない。早く、早くと、急かす心のままに荒々しく引き出しを開けて、中身をひっくり返した。そこにいるのは、知っている。
(俺の、相棒)
正直、筆なんて無数に使い潰してきたし、今だって手の届く範囲内だけでもいくらだって筆は転がっている。何しろ、美術準備室だからな。でも、この絵は……この絵だけは絶対にこいつで描くと決めていた。俺が最後に描いた作品も、この筆を使って描いた。特別な絵を描く時は、いつでもこの筆だった。




