11 印象・日の出 ⑨
ぱらり、と。
また、ページの捲られる音が聴こえる。俺はその塗り替えられた世界の色彩に、どこか安心させられて息を吐き出す。水彩よりも激しく原色に近い鮮やかさで、あまりにも身に馴染みすぎた世界……俺はまだ、この色に触れて安心できる人間だったのだと、そのことにこそ本当の意味で安堵していた。
油彩画の、世界だ。俺の生きていた、場所。
涙がこぼれそうなくらいに、重ねられた色の厚みと質感が、どうしようもなく懐かしく感じる。ずっと嗅ぎ慣れていたはずの、美術室の匂い……あの独特なシンナーの残り香と、まったりと喉に絡みつく油、それから数え切れないほどの絵の具が持つそれぞれの匂いが混じり合った空気が、一気に肺の中に雪崩こんできて。
塗り重ねられた森の緑の向こう側に、空の蒼さが透けている。光と影、二つが常に隣り合わせになりながら、刻々と変化する世界の色を追いかけていく筆触分割。水彩では柔らかなグラデーションで描かれていたはずの木肌が、よく見れば赤や黄色を基調として淡い緑の光や深い紫の影を丁寧に重ねた、現実にも有り得ないくらいの厚みと美しさをもって世界の奥行きを何倍にも広げていく。
ふわり、と。鼻先を何かがかすめていく……艶めく黒の翅に、俺が手にしている花のようにきらめくエメラルドの模様。ここに来る時に出会った蝶と、再び巡り合ったような感覚に、奇妙な懐かしさを感じる。この部屋に入ってから、それほど時間なんて経っていないはずなのに、もうずっと長い旅を続けてきたような気がしていた。
「わ……!」
顔をあげた瞬間、飛び込んできた光景に目を見開く。森の木々に茂る、葉だと思っていたものが次々に羽を広げて飛び立ち始める。たちまち幾千に輝く蝶が、風にのって遥か遠くの空を目指し、いっせいに羽ばたいた。その勢いに押されて、思わず後ずさった瞬間、あっと思う間もなくまた世界が変わる。今度は色彩でなく、世界そのものが。
背の高い森の木々は消え、目の前が一気に開けて立ち尽くす。どこまでも広がる草原……そこには全て散ってしまったと思っていた宝石の花が、一面に咲き誇っていた。そこで羽を休めるためか、それとも安息の地をここに見出したのか、数匹の蝶が舞い降りていくけれど、蝶の群れのほとんどが美しい花達に見向きもすることなく飛び去っていく。ふと振り返れば、遠く離れた場所に俺達が旅だった森の端が見えた。
もう一度、その森に背を向けた瞬間、またページが捲られる。残像のように、飛んで行く蝶の翅が光に透けて優しくきらめいた。
次に立っていたのは、豊かな水の流れる川のほとり。魚が楽し気に飛び跳ね、水鳥が戯れ、兎が不思議そうにこちらを見つめる光景に、どことなく来栖の影を感じる。何だかんだ言って、殺伐としたマフィアの世界みたいなものだけが来栖の全部じゃない。こういう、どこまでもファンタジーな暖かくてホワホワとした世界だって、間違いなく彼女の一部なんだろう。たとえ本人が『ニセモノ』だと思っていたとしても、
(この世界の暖かさは、本物だぞ……来栖)
そんな優しい色彩に満ちた場所でさえ、蝶たちにとっては安息の地ではないのか、また数匹だけをここに残して彼方の空に翔けていく。
ぱらり、ぱらり、と。ページが捲られるたびに景色は変わって、最初に出てきたはずの森は遥か遠く、とうの昔に見えなくなっていた。白い飛沫をあげて流れ落ちる滝、天にも届くような険しい山脈、吹き抜ける風の錯覚すら感じさせる深い谷底、水が枯れてどこまでも広がる荒涼とした砂の大地……通り過ぎていく景色の全てで、少しずつ仲間を減らした蝶の群れが、もう何ページ目かも分からない世界を飛び去ったその『果て』に辿り着いた瞬間、これこそが彼らの目指していた場所なのだとすぐに気付いた。
どこまでも透徹とした、蒼の世界。
「……海だ」
ぽつり、と。こぼれ落ちた特に意味を持たない言葉が、静かにその青へと溶けて消えた。波の音も、寄せる飛沫も何も存在しない。ただ遥か彼方の水平線で交わりそうな、海と空との境界線に届くまで、どこまでも凪いだ水面がひたすらに続いている。
かすかに揺らぐ水の青さは、足元に近付くほど純粋な透明へと回帰していく。空を見上げれば、全てのものに光と色とを与える太陽が、白く眩しく輝いていた。ふと見れば、長い長い旅を終えた宝石の森の蝶たちが、静かな眠りに就くように海の水面に止まり、やがて溶けて消えていく姿が見えた。この作品の、全てに垣間見える美しさと寂しさ、その極地がきらめきと共に海へと消える蝶たちの最期にあるような気がした。
この旅路の行き着く先を知りたくて、また一歩、足を踏み出した。
(え……?)
不意に、何もかもが消えて目の前が比喩でなく真っ暗になる。軽くパニックになりかけて声を挙げようとしたところで、来栖から『演出上真っ暗になることがある』とかいうようなことを言われていたのを思い出す。強く手を握りしめて深く息を吸い込むと、少しだけ落ち着いた。




