11 印象・日の出 ⑧
なかなか日常では見ることの出来ないような、不思議と真っすぐな魅力を持った輝きに見とれていると、不意にそのエメラルドが内側から燃えるような眩しい光を放ち始める。反射的に放り投げようとした矢先、神代から言われた言葉が脳裏をかすめた。
『どうかその灯を、手放さないようにしてください』
グッと息を飲み込み、手の平から落ちてしまいそうになっていたエメラルドを、落ち着いてもう一度載せ直す。その瞬間、俺に受け容れられることを待っていたみたいに、エメラルドから漏れ出していた光が集まって、爆発するように吹き上がった。
思わず目をギュッと閉じて、そこでようやくこれがレゾナンスの見せる幻なんだという事実を思い出す。それまで、完全にそのことを忘れ切って、目の前で繰り広げられる光景に右往左往していた自分が急に恥ずかしくなって、強く瞑っていた目をソロソロと開いた。
「っ……」
芽吹いて、いる。
僅かにひび割れた宝石の隙間から、きらめく蔓が伸びて天を目指していく。これは種だったのだと、息を呑んでその生命の奇跡を見守った。力強く広げた葉の合間から、顔を覗かせるようにして小さなつぼみが生まれる。
まだ降り止まない宝石の雨の隙間を縫って、照りつける真夏の太陽を浴びた蕾は、やがて秘密を囁くみたいにそっと花を咲かせた。エメラルドが閉じ込めているみたいに見えた水が、生き物のように蕾から零れて繊細な花びらを形作り、それが幾重にも重なった水の彫刻が美しく揺らぐ。どこか百合に似た高潔さを持つ、凛と咲く花だった。
その花の重みで耐えきれなくなったように首を傾げたエメラルドの茎に、少し遅れて水の花達が揺さぶられ、こぼれた一雫が受け止める間もなく地面へと吸い込まれていった。
ポツリ、と。
教室の床に落ちた水滴が、美しい同心円状の波紋となって広がっていく。何十倍にもなって広がった一雫に触れた色とりどりの宝石たちが、自分の役目を思い出したかのように次々と芽吹いていく。一斉に花開く宝石の花々に、喉奥から小さく吐息が零れ落ちた。どこかから吹いてきた風に花達がシャラシャラと揺れて、触れ合った花びらが風にのって舞い散っていく。
「あ……」
舞い散る花びらが、俺の目の前で粉々に砕けて、キラキラと光を放ちながら消えていく。ついさっきまで、あんなにも美しく咲いていたのに。呆然と立ち尽くしている間にも、一輪……また一輪と、艶めくサファイアや燃えるようなガーネットが砕け散って。
最後に残された一輪に、思わず手を伸ばして踏み出した瞬間、どこかで聞いたことのあるような乾いた音が耳奥で響いた。
ぱらり、と。
目の前の光景が、一瞬にして色彩を変える。今の今まで限りなく現実に近い場所に立っていたのが、唐突に違う理で動く世界へと弾き飛ばされてしまったような感覚。見ているものは、砕けた宝石が無惨に散らばっているのは同じはずなのに、何もかもが柔らかく滲んで……どこか懐かしく優しい色に、全てが染め上げられていた。
(……水彩画、なのか)
世界が同じ形を保ったまま、違う画材で何もかも描き換えられてしまっただけなのだと気付いた瞬間、先ほど響いた音が本のページの捲られた音なのだと理解する。俺はいま、物語の中に立っているんだ。俺の手に、一輪だけ残った花から生まれた、たった一雫の雨の物語に。
声が、聴こえる。
聞き間違えるはずもない、幼い時からずっと傍にいた、灯の声だ。天から降り注ぐその歌声を目指すように、七色に散らばる宝石の破片が風にのって舞い上がり、やがて地上に虹の雨となって再び降り注ぐ。何度でも、何度でも。
その光景は、たとえ雨になって戻って来たとしても、二度と花の形には戻れない宝石の欠片たちを思うと、美しいのにどうしようもなく悲しくて。俺はたった一輪だけ手の中に残ったエメラルドの花を、壊してしまわないようにそっと握りしめた。
きらきらと輝きながら地上に舞い降りた雨が、ぽつりと地面にぶつかった場所から緑が広がる。淡い水彩絵具を含ませた筆でスッとなぞるように、地面を割って力強い若葉が芽生える……ああ、これは分かる。八神の線だ。
八神がちょこまかと動き回って筆を走らせる姿が見えるくらい、淡く滲みながらも芽を出した双葉が迷いなく天を目指す。それはまた宝石の花を咲かせるのかと思いきや、みるみるうちに俺の身長を越えて若木となり、光と雨を浴びて大樹へと育つ。
美術室の机、だったものは最低限の原型だけを残して大樹の中に取り込まれ、苗床となって森が生まれる。俺の呼吸の隙間を縫うように、枝を伸ばし葉を茂らせて、青く突き抜けるような夏の空が覆い隠されていく。つい数秒前まで眩しいくらいだった光の空が、優しく柔らかな木漏れ日になって俺を包んだ。
(あったかい……)
俺の現実の身体は間違いなく屋根のある美術室にいるはずなのに、本当に森の端に出て木漏れ日の中で微睡んでるみたいな、そんな錯覚を感じている。木々の隙間から滲み出す、金色の光に手を伸ばして、また一歩踏み出した瞬間に世界が色を変えた。




