10 星月夜。伝えたいことは、たぶん一緒だ。
(もう、ダメだ。一歩も動けん)
成人男性、現代日本で行き倒れ。今夜のニュースは、それで決まりだ……いや、俺の存在なんてミジンコみたいなもんだし、ニュースになんてならないかも。そもそもミジンコさんにさえ失礼だったか。ミジンコさん、ごめんなさい。
俺、なんで単細胞動物に謝ってるんだっけ、なんて拡散した脳ミソでとりとめもなく考えてると、ようやく懐かしき我が家が見えた。朝は寝坊して遅刻したけど、それでもかれこれ八時間ぶりくらいのマイホーム。長い旅だった。
もたもた鍵を差し込んでガチャリ、とドアを開けると家の奥からパタパタと動き回る音が聞こえる……灯、帰ってたのか。少なくとも、空き巣でないことを祈る。
「お兄ちゃん、おかえりー。うわ、想像はしてたけどボロボロ……」
そんなことを言いながら、玄関に顔を出した妹様に、俺は言葉を失った。
(浴衣だ……)
そんな身も蓋もない感想しかこぼれてこない。俺は芸術家じゃなかったのか、いや、芸術家の名は返上したんだっけ。そんなことは、どうでもいい……今は目の前の浴衣だ。
柔らかく落ち着いた、軽くアイボリーのような色の入った布地。青や水色の大きな水玉が幾何学模様のように散らされて、ポップでありながら少し大人っぽい印象という、真逆の概念が上手い具合に溶け合っている。鮮やかな瑠璃色の帯に、キュッと締められた淡い桜色の帯締めのコントラストが綺麗だ。
いつもはシンプルなポニーテールにしてるのに、浴衣に合わせてアップにされた甘いチョコレート色の髪が、フワリと後れ毛をつくって白い項へと滑り落ちていく。目が、吸い寄せられる。床を踏むスラリとした健康的な素足が、前に買ってやった花飾りのついた美しい下駄を履いて、カランコロンと軽やかな音を立てていたら、きっと素敵だろうと思いを巡らせていると、俺がガン見していることに気付いたのか恥ずかしそうに灯が視線を逸らす。
「……お兄ちゃん、見すぎ」
「ん、ああ……悪い」
灯が顔を真っ赤にして照れまくっているので、なんだか微妙な雰囲気になってしまったが、これまでこれっぽっちもモチベーションの湧かなかった祭にぜひとも行きたい、行ってやろうじゃないの祭、と言う気分になってくる。我ながら単純だとは思うけど。
「なぁに、そんなに似合ってた」
変な雰囲気をどうにかしようとしてるのか、灯が茶化すみたいな感じで聞いてくる。
「おう、めちゃくちゃ」
思わず真顔で返してしまって、あ、対応をミスったと思った時には既に遅く。灯はまた茹でダコに戻ってしまう。こうなると長いからな……俺も準備してこよっと。
「普通に外着でいいか?」
俺の一言でパチクリと目を瞬かせて復活した灯が、さも当然のように言った。
「えっ、浴衣あるじゃん?」
「え……俺も着るんですか」
何故か敬語になってしまう。そう、かつて灯に『お兄ちゃんも浴衣着てよ!』という押しにアッサリ負けて、若気の至りで浴衣を購入してしまったことがある。あの時からもちろん背は伸びていないし、普通に着れるではあるけど、精神的に着るのが苦痛だ。
やだよぉ、と言う気持ちをこめて妹様を見つめた。我ながら気色が悪いと思う。
「着なさい」
「……はい」
妹様の一声で、俺はすごすごと洋服とお別れして、リビングに用意されていた浴衣に袖を通した。何だかんだで浴衣は涼しい、気分になる。要するに、気分だ。ベースは紺で、そのまま紺色であってくれれば良かったものを……過去の俺は何故かそこから、なんて言うか空色、みたいなメチャクチャ明るい色へのグラデーションという謎のデザインを選んでしまっていた。
まあ、ガラ物とかで勝負賭けてなかっただけ良かったのかもしれないが、俺の学校の生徒に偶然会ったりして、通りすがりに『先生、若作りしすぎじゃね?イタいわー』なんて言われた日には、きっと俺は泣いてしまうと思う。決して実体験ではない。
俺が帯を締めるのにもたついていると、灯が駆け寄ってきて代わりに帯を締めてくれる。なんでも出来る妹さんで、不出来な兄は伏して拝むことしか出来ません。
「はい、できた!うん、お兄ちゃんはやっぱりその浴衣がいいよ!」
そんな満面の笑みで灯に言われてしまえば、やっぱり『なら、これでいいか』なんて思ってしまう単純な俺は『らしくない』浮かれた気分で、かくして、いつもとは少しだけ違う夏祭りに繰り出したのである。
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