09 ヴァトーのピエロ ⑥
レゾナンスにこういう使い方があるのは知っていたけど、実際に体験するのは初めてだった。この世界のどこか……もしかしたら、日本かもしれない。そのまま写真集の一部になってしまいそうな光景。音は聞こえなくても迫ってくる圧倒的な自然。その中で、先生だけが浮かび上がって見えるように、ポツリとキャンバスに対峙していた。
その場所にだけ、圧倒的な静寂があった。永遠にも思える一瞬のうちに、ふと力を抜いた背中が動いて、次の瞬間ふわりと右手が一本の筆を取っていた。この自然を前にして、これから描こうとすることに、何の気負いも持っていないかのように。
(この人は、本当に注目され慣れてるんだ)
きっと無意識に、指の先まで人に見られること……ううん『魅せる』ことが身体に染み付いてる。どの瞬間、最も自分に注目が集まるのか。緊張すべき、弛緩すべきポイントはどこか。観客の視線を誘導しながら、自分がキッチリ集中できるような雰囲気の空間を作ってる。これは全部が『ショー』なんだと、気付く。
さっとパレットに筆を走らせて、かすかに色づいたそれを大事なものに触れるみたいに、そっとキャンバスの上に置いた。そこからはもう、目の前で何が起きているのかを追うだけで必死で、実際に先生が何をしているのかなんて、きっと一割も理解できてなかった。次はどこにどんな色を置けばいいのか、何もかも分かってるみたいに、先生の筆は滑るようにキャンバスの上を踊った。
「……そもそも、風景が絵画のテーマとして一般的に承認されるようになるには、十七世紀まで待たなければならないが、更に今の我々が知る『風景画』というジャンルの確立に至るまでは、十九世紀における自然主義の台頭を待たなければならない。それまで、あくまで風景とは人々の背景としての役割のみが期待され、もしくは何らかの宗教的もしくは歴史的な画題を暗喩するための材料に過ぎなかった……」
耳馴染みの良い低い声が、とうとうと音楽みたいに美術史とか名前もよく分からない技法を語っていくけれど、その全てが耳をすり抜けていってしまう。私達普通科の生徒には語られない、難しい美術の話を口では紡ぎながら、何でもないことのように素早く無造作に手を動かして、魔法みたいに一つの芸術が生み出されていく。
銀の糸で紡がれたみたいな水のカーテン。木漏れ日を反射して宝石を溶かし込んだみたいにきらめく水面。遥か高みへと突き抜ける空は、それよりもずっと青く澄んでいる。絵の全てがグラデーションのように細かく色を変えながら、いま見ている瞬間も変化し続けている自然の光を捉えて離さない。それなのに、先生はほとんどパレットの上で色を混ぜることをしなかった。
一つ一つの光の粒が持って生まれた、その色の全てが見えているかのように、絵の具そのままの色をキャンバスに落として、世界が『再構築』されていく。それは触れるのも躊躇うくらいに、目の前の光景よりもずっと繊細で、柔らかくて暖かい色に満ちた世界。それなのに触れればこちらを躊躇なく傷付けてくるような、自然の冷たさと厳しさがそこにはあって。矛盾するような概念が、違和感なくキャンバスの上で溶け合っている。
見たこともないくらい美しくて、それなのに胸が締め付けられるくらいの懐かしさ。完成した絵には、そんな『熱』を感じた。絵のことになんて全然詳しくないのに、とにかく目の前ですごいことが起きていたんだ、という実感だけが残る。
これが、早描き。ぴったり一時間で、先生は作品を描き上げた。一時間なんて時間で描かれたことが信じられないくらいに、それ以上に描き足しようがない『完成』された作品がそこにあった。不意に、足元を流れていた水がカラリと枯れて、何の変哲もない美術室の床が現れる。夢から醒めた気分で、先生を見上げた。いつもとそんなに変わらないはずの、教壇と私の立つ場所の距離が、どうしようもなく遠く感じて。
現実に戻っても、その絵は美しくきらめいていた。夢の時間をとどめるみたいに、もっとも美しい瞬間だと、誰もが思ったような魔法の隙間を縫って仕上げたタペストリーのように。それをしばらく黙って見つめていた先生は、やがて何かに耐えきれなくなったみたいに顔を背けて、それがこの世で一番醜悪なものであるかのように、そんな『おざなり』な感じで手を払って……その美しい一枚の絵を消し去ってしまった。
それが、みんなの視界から見えなくしたのではなくて、本当にこの世から消してしまったのだと本能的に気付いて……思わず挙げそうになった悲鳴を、必死に堪えた。思わず周りを見渡すと、ショックを受けたような顔が沢山あった。きっと、私も同じような表情をしていたんだと思う。芸術科の生徒にとっては『いつものこと』なのか、さすがに冷静だったけど、苦い表情を浮かべている顔がいくつもあった。奏ちゃんと梓ちゃんも、その一人だった。
ただ先生は、そんなことを気にも留めていないような冷たくて淡々とした表情で、ざっと美術室を見渡して口を開いた。
「模範演技と技法の説明は以上だ。質問がある場合は挙手して俺を呼べ。見ての通り今日の課題は『風景』だが……そのまま描き留めるだけなら、心のない機械でもできる。受け止めて、噛み砕け。お前が見ている世界はなんだ?画材は自由。一時間だ……始めろ」
その声を聞いて、よく訓練された熟練の兵みたいに、ただそれぞれの使い込んでいる統一感がない画材を机の上に並べ、あるいは手にして自分が描こうと胸に浮かべた風景と向き合い始めていた。ただ私は、いま消されてしまったばかりの世界から、まだ抜け出せないままで。
「お兄ちゃん、本当に『そっち側』に戻ろうとしてるんだ……」
そんな灯ちゃんの言葉が耳を素通りしていくのを感じながら、世界に一人きり取り残されたみたいな、そんな静寂の中で立ち尽くしていた。
*




