09 ヴァトーのピエロ ⑤
夏休みの始まる直前の土曜日に、芸術科の公開授業が行われた。対象は基本的に来年度以降の芸術科受験を控えてる中学生とその親御さんだったらしいけど、私達普通科の生徒も前から芸術科がどんな授業を受けているのか気になってたし、更に『あの穂高燿』が教師をやっているなんてウワサを聞きつけて駆けつけた大人を合わせてかなりの立ち見が出た。
もちろん私も見学しにいった野次馬の一人で、奏ちゃんと梓ちゃんが教室だとどんな感じなのかって言うのもあるけど、やっぱり先生が芸術科……プロを目指そうとしている、つまりは自分と『同類』の生徒達の前では、どんな表情をするのか知りたかった。
灯ちゃんも当然その場に来ていて、授業の始まる少し前になってスルリと当たり前のように隣へ立ってくれた。こういう知らない人だらけの場所で、友達が隣に立っててくれるのってこんなに心強いんだって実感する。本当は奏ちゃんも梓ちゃんも、どこに座ってるのかは分かってたんだけど、芸術科の生徒に混じって座る二人はなんだか知らない人に見えて声をかけることが出来ずにいた。
「うわ、ホントにこの子達……一年生?」
開口一番に灯ちゃんが囁いたのは、私がついさっき考えていたのと同じようなことだった。そう、奏ちゃんと梓ちゃんの二人が、あんまり一年生っぽくなくて気軽に話せるのは、特別に大人っぽいからなのかと思ってた。
でも、ここに座っている子達は何ていうか……ただ大人びているってだけじゃなくて、歴戦の猛者、みたいな風格を感じさせるというか。とにかく、近付き難い雰囲気を持った集団だった。その誰もが無駄口を叩くこともなく、淡々と戦支度のように画材の準備を進めている。授業を受けるための姿勢が、完成されていた。
前に教室を覗いた時は、もう少し仲が良さそうって言うか、ちょっと大人しいくらいで芸術科でも普通科とそんなに違うワケじゃないんだな、って安心してたくらいだったのに。この違いは、なんだろう。公開授業だからって、緊張してるんでもなさそうだし……どっちかって言うと私達『外野』の目なんて気にもしてないって言うか、注目され慣れてる感じがした。そんな中でも、あの二人は……奏ちゃんと梓ちゃんは一目で分かる別格だった。
「最近、だいぶ二人の天才っぷりにはマヒしてると思ってたんだけど」
灯ちゃんも、やっぱり私と同じことを考えたのか、美術室の様子を眺めてそう呟いた。
「こうやって改めて見ると『違う』んだなって、実感しちゃうよね」
私達は顔を見合わせて苦笑した。ただ、もうそのことで立ち止まったり、自分を見失ったりする場所は、二人とも乗り越えて来たんだと互いに確認し合って。
「穂高先生の様子、見てきたんでしょう?どうだった?」
私が首を傾げると、灯ちゃんは微妙な笑顔を浮かべながら、ちょっと返事を考えた。
「いつも通り、と言えばそうかな……相変わらず『人いっぱい来てるとか、マジか……行きたくない。帰っていい?いいよな?ヤダ、行きたくない……』って、いつものヨレヨレ白衣を頭から引っかぶって椅子でクルクル回ってたよ」
「それは……」
確かにいつも通りかもしれないけど、なんとなくそれに賛成するのも申し訳ない気がして。それよりも、灯ちゃんによる穂高先生のモノマネが似すぎていて、笑ってしまわないように堪える方が大変かもしれない。
「まあ、あの人も何だかんだで人前出るの慣れてるから。こんな有象無象の観客なんて、かぼちゃ以下の存在にしか見えてないと思うし、たぶん大丈夫。人前に出ることそのものは、そんなにトラウマになってないみたいだし」
私は灯ちゃんの言葉にホッと胸を撫で下ろした。私は芸術部の他の三人に比べて、穂高先生の過去をあまりよく知らない……だから、先生が何かいろいろなものを抱えていて、いつも苦しそうにしてることは分かっていても、具体的にどこからどこまでが踏み越えてはいけないラインなのかも良く分からない。だから、いつだって不安なのかもしれないと思う。
「そろそろだね」
灯ちゃんが、レゾナンスの時計が表示されてるあたりを見つめて言った。今日は学校側から美術室内ではシンクロ機能を推奨する、との通達が出てる。灯ちゃんから聞いたところだと、なんでも先生の授業のやり方がレゾナンス必須だからってことらしいけど。
「大丈夫、かな……穂高先生」
私が心配になって呟くと、灯ちゃんがカラリと笑って言った。
「大丈夫。ほら……来たよ。ちゃんとスイッチ、入ってる」
灯ちゃんの視線を追いかけると、いつもの白衣姿の先生が、開きっぱなしのドアから入ってくるところだった。
(……いつもと、雰囲気が違う)
空気が、張り詰めているみたいに静かだ。音楽が始まる直前みたいに。
足音もなく私達の前を通り過ぎた先生は、ズラリと並んだ観客なんて目にも入っていないみたいな自然体で教壇の上に立った。指揮者を見つめて楽器を構えるオーケストラの人達みたいに、ピリピリした緊張感のある横顔が一斉に姿勢を正す。
「いつも通り一時間は模範演技、次の一時間を実習とする。途中退席・途中休憩はご自由に。今日は公開授業だから、主義主張信念に関わらずシンクロ機能を公開設定にしておくように……それでは、授業を始める」
公開授業のことにはそれだけを触れて、先生はクルリと背を向けた。そこには、ついさっきまで存在しなかったはずの真っ白なキャンバスがポツリと置かれていて、私は思わず目をこすりそうになった。すぐにそれが、レゾナンスで出された仮想のキャンバスだと気付くけど、どうしてか魔法みたいに現れた気がした。雰囲気に、呑まれる。
先生が差し出した左手に、光が降り注ぐようにして彩りに満ちたパレットが形作られる。暖かな印象のある、木製のそれは先生の手に吸い付くようにして、本当にそこに存在しているかのように見えた。あれはきっと、先生の相棒なんだと直感する。苦楽を共に分かち合ってきた相棒……それでも少し持て余しているように見えるのは、あれがきっと『コピー』だからなんだと思う。そうだとしたら先生の『本物』は、どこにいってしまったんだろう。
その瞬間、唐突に足元から世界が消えた。ううん、そんなのは錯覚だって分かってるのに、身体が反射的に浮遊感を感じる。力強く、水が足元を流れていく。そのまま押し流されてしまいそうな不安を覚えて見上げれば、そこには水面を叩きつけるようにして落ちてくる水の壁があった。私達は、滝を見ているんだと気付いて、同時に他の情報が一気に頭になだれ込んでくる。緑に茂る木々に、差し込む木漏れ日、空を写し込んだ青い水面。




