08 ホラティウス兄弟の誓い ⑤
お兄ちゃんが『神代の作品には色が見える』って言ってた、その本当の意味が、いまようやく分かったような気がしていた。
(ホントに、天才なんだ……)
今まで『天才』って言葉を勝手に恐れてただけで、八神さんや神代さんがどんな芸術家なのか、全く分かっていなかった。でも、これをみたら下らない嫉妬とか、劣等感とか、そういうものが何もかも吹っ飛んでしまって。
それは多分、満点の星空とか、どこまでも広がる海を見た時みたいな、何かをひたすらにキレイだって受け止める、目に見えない何かに……私の場合は神様に対してだけど、誰もが信じているはずの『尊い何か』に対して祈りを捧げたくなるような。そんな感覚だ。
それに気付いた瞬間、自分がこれまで抱えていた鬱屈とか矛盾とか焦りとか、そういうものが本当にどうでもよく思えて。気付けば、笑みがこぼれていた。ちょっとだけビターな味の、それでも晴れ晴れした気持ちで浮かべる、おかしな苦笑。
いつの間にか美術室には、大から小まで様々な動物で溢れかえって、声はあげないものの賑やかに空を飛び回り、椅子の間をゆったりと歩きまわっていた。
(うわ、ムダに豪華すぎる『どうぶつ図鑑』)
この世に存在しない生き物が一部、って言うか沢山含まれてるけど。
そうして、真剣に……言葉を変えれば無邪気に時間を忘れて、世界に指を走らせながら無から有を生み出していた神代さんが、今度は小さな牝鹿を描きながらポツリと呟いた。
「……私は、あなたを傷付けたくない」
「ナメてんの?」
どっかで聞いたようなセリフだな、と思いつつ反射的に横をチラリと盗み見ると、数日前に全く同じ言葉を叩きつけられた結ちゃんが引きつったような笑みを浮かべていた。アレは確かに、トラウマになりそうだ。当の言葉をぶつけられた神代さんは、何かを深く考え込んでいて、ショックを受けているヒマもなさそうだったけど。
「私もアンタも、飾ってふんわりさせた柔らかい言葉で、そんなもので会話して本当に分かり合えるほど器用な人間じゃない。本当に私のこと理解したいと思うなら、ボロボロになるくらい傷付いて、傷付けられて、そうやってでも付き合い続ける覚悟してから来なさいよ。こちとらそんな覚悟、とっくの昔にできてる……安全圏で、一人だけ『普通』になれたみたいな顔してたら、どんどん私から遠ざかってくの!分かってる?」
八神さんの言葉に、神代さんはハッとしたような表情を浮かべた。こんなに人間らしい表情も出来るんだ、なんてすごく失礼なことを考える。
「アンタはおかしいのよ。私もおかしいの。それで、いいじゃん……何がダメなわけ?間違いだらけの人生抱えて傷付け合って、それの何がいけないのよ。そうでもしなきゃ、私達みたいに似ているトコなんてかすりもしない人間同士が、分かり合えるわけないじゃないっ。甘えてんじゃないわよ!」
ビリビリと、空気が震えた。目が、覚めたような気がした。深い深い眠りから、叩き起こされるみたいに。傷付け合うことの、なにがいけない、か……なんだか、私に対して贈られた言葉であるようにさえ感じていた。
「……なるほど」
ポツリ、と。岩に水が染み込むような忘我の声で、何かが抜け落ちたような表情で、神代さんは瞬いた。
「あなたは、そういう人間なのですね」
音のない、どれだけ手を伸ばしても闇だけが広がる宇宙の片隅で、ようやく誰かの指先に触れたような。そんな途方もない距離を旅してきたみたいに、想像もつかないくらい長い眠りについていた蕾が、そっと花開くみたいに彼女は笑った。初めて、人のぬくもりを知ったみたいに、じわりと染み渡るような笑顔が私の心を締め付ける。
納得したように、嬉しそうに何度も何度も頷いて、それから彼女はまた指先で新しい動物を生み出し始めた。今度は本当に、子供がおえかきをするみたいな軽やかさで。神代さんの横顔を、ふと極彩色の魚の影が通り過ぎていく。
ゆったりと息を吐いて教室中を見渡せば、そこには二人の天才が紡ぎ出した極彩色と無彩色の生き物たちが、寄り添いながら時に激突しあいながら共存していて。正反対の色使いであるはずなのに、どこか違和感なく融け合っているそれらが、なんだか二人の関係性をそのまま表現しているような気がして少しだけおかしかった。
ふと、その楽園の中心で筆を振るう八神さんと目が合った……『話はついたわ』とでも言いた気で満足そうな表情に、私と結ちゃんは顔を見合わせて笑ってしまう。これはもう『こっちに来なさいよ』って言われてるみたいなものだと思う。
「「アクセス・アート!」」
声を重ねて、二人で踏み出す。
私はまず天を指差して、空を蒼色のグラデーションで染め上げた。これくらいなら画家じゃなくたって、レゾナンスでちょっとでも遊んだことのある人間なら誰でもできる。だけど、自分の手から生み出されていく空の青さは、どうしようもなく鮮やかに私の胸をいっぱいにした。
ふと空を見上げた神代さんが、ごくごく自然な仕草でそこに雲を描き加えていく。世界に遠近感が生まれて、美術室の天井でしかないはずのそこが、果てない天空へと生まれ変わる。
結ちゃんはビックリするくらい大きな刷毛で、床に緑を敷き詰めていた。こっちまで楽しくなってくるくらい豪快に刷毛を振り回して、ワイルドな芝生がそこかしこに散らばっていく。
そこに八神さんが『仕方ないわね』とでも言いそうな表情で、色とりどりの花を咲かせていく。この世に存在しないはずの風に吹かれて揺れる花達が、足を踏み出すことをためらうくらい繊細な花びらを舞わせて、ゆったりと歩く動物達の足元を優しくくすぐる。
(これが『シンクロ』なんだ……)
いま私達は、ようやく本当の意味で繋がり始めているのかもしれない。こんな子供みたいなやり方で、それでも今までよりずっと強く。
振り返ると、どこか眩しそうな表情で私達を見つめるお兄ちゃんの姿があった。
私のやりたいこと。本当の願い。覚悟。傷付けてでも、たどり着きたい心……いま、この瞬間、全てが繋がったような気がした。
(まだ、その手を取るために、踏み出す勇気はないけど)
私のやるべきことが、ようやく見えてきた。止まっていた時間を、さびついた時計の針を動かすために、私が『やりたい』と思うこと。全部、やろう。
決意をこめて、青空に七色の希望を描く。もう夏が、すぐそこまで来ていた。
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