07 洗礼者ヨハネ ⑦
「もし、そう聞こえたんだとしたら、それはきっとライブの魔法だと思うよ。その場の雰囲気みたいなのに呑まれたってこと。謙遜とか、そういうのじゃなくて……本当に自分で自分に胸を張れない出来だった。だって、ほとんどヤケクソみたいに歌ってたんだもん、当たり前だよね。結局、私もやり方は違っても、小手先でごまかしてたんだと思う。」
あの歌声が、何かをごまかして歌っていたんだとすれば、もし灯ちゃんが最高のコンディションだったらと思うと背筋が冷たくなるような感じがした。今まで憧れながらも手の届く場所にいた人が、一瞬で遠くに行ってしまったみたいな感覚。
その感情の正体に気付いて、自分の醜さに寒気がした。私は無意識のうちに、灯ちゃんと私が同じ『普通』だと思い込んで安心していたんだ。それはきっと、灯ちゃんに対してほとんど侮辱みたいなものだ。そんなことに、いまさら気付かされる。
「あの二人に……それから、お兄ちゃんに置いてかれたくないなら、苦しくても歩き続けるしかないよ。八神さんも神代さんも全力で走り続けてて、どんどん距離が離れていって、それに絶望したとしても。立ち止まっちゃったら、そこでおしまいだから」
こんな時でも先のことを考えられるなんて、やっぱり灯ちゃんらしいよねと思いながら、私もほんの少しだけ未来のことを考えて、思わず溜め息がこぼれそうになる。
「そう、だよね……でも、本当にいいのかな」
私がポツリと落とした不安に、灯ちゃんは「何が?」と首を傾げた。
「八神さんと神代さんに比べて、私の動機ってすごく不純だから」
「あの二人も同じじゃないかな?向けてる気持ちの種類が違うってだけで、お兄ちゃんの近くに行きたいって言う目的は同じでしょ」
「そう、かな……」
なんとなく、何かに行き詰まったみたいな沈黙が落ちる。こんな時、どっちつかずな自分がイヤだ。そんな自分を振り切るみたいに、私はわざと明るい声をあげた。
「こんなとこで、悩んでても仕方ないよねっ。私が芸術部をはじめちゃったんだもん……名前だけでも、芸術部の部長を任せてもらってるんだから、少しでもそれに恥ずかしくないようにしないと」
私の言葉に、灯ちゃんがようやく明るい笑顔を見せてくれる。このためだけに、頑張ったっていいのかもしれない。先生に近付きたい、なんて目的はいったん置いて、大事な友達を悲しい顔にさせないために頑張ったっていいのかもしれない。
「私、帰ったら……自分が今まで書き上げた小説の中で、一番好きだって思えるのを全力で改稿してみることにする」
「うん。どうしてもクオリティのことが気になるなら、私もそれが一番いいと思うな。応援してるね」
灯ちゃんは笑って頷いてくれたけど、何かが気がかりみたいな表情でうつむいてしまう。
「……さっきはカッコつけたこと言っちゃったけどさ、正直お兄ちゃん達についていくのは、しんどいよね。私も、このままでいいのかなって、ずっと悩んでる。このまま声楽続けてても、いいのかな……って」
「灯ちゃん、この前の進路調査では『音大進学』って希望出してたみたいだったけど」
無難に堅実に生きていく、が口癖みたいな灯ちゃんが、思い切ったこと言い始めたなってビックリさせられたから、よく覚えてる。あ、音大行ったから堅実じゃない、なんて言うつもりないけど……なんとなく灯ちゃんは焦ってるような気がしてた。
「あの三人にね、レベルとかクオリティで勝てるとは思ってないし、そもそも分野がまるで違うもの。競う相手間違ってる、って言うのはよく分かってるの……でも、今はこうやってガムシャラにやってて良いかもしれないけど、未来のこと考えたらどうするのが正しいのか、分からなくなっちゃった」
灯ちゃんは指を組んで、指先が白くなるくらいギュッと握った。そうしてないと、自分がどこにいるのか分からなくなってしまうみたいに。
「お兄ちゃんみたいな人達ってさ、すっごく苦しみながら芸術家やってるのに、結局はやめられないくらいそれが好きなんだよね。だから『そっち側』に踏み出すなら、いま上手いか下手かはともかくとして、自分がそれに一生捧げられるくらい『好き』って気持ちがなくちゃダメなんだと思う。覚悟、って言うのかな……少なくとも、私の考える芸術ってそういうものなの」
「でも私達、まだ高校生だよ……?」
「年齢は言い訳できないよ。それから、才能も」
初めて聞く灯ちゃんの厳しい声に、私は背筋が震えるのを感じた。
「お兄ちゃんだって、最初から天才だったワケじゃない、信じられないような時間、人生のほとんど全部をものすごい密度で芸術のために積み上げて、あの場所に立ってる。あれを目指すのはムリだとしても、気持ちだけでもあんなに真剣になれてるかなって……それを考えたらさ、お兄ちゃんが……穂高燿って人間が、どうしようもなく遠くに感じた」




