07 洗礼者ヨハネ ⑥
「待って、結ちゃんっ」
今までに聞いたことのないくらい必死な灯ちゃんの声が、私を引き止める。さっきの私、そんなにひどい顔してたのかな。ぎゅっと手をつかまれて、足が止まった。さっきまで忘れていたはずの震えが、全身に広がっていく。
私を追いかけてきてくれた灯ちゃんの手は、なんだか涙が出そうなくらいに暖かくて、それでも失った熱は簡単には戻りそうになかった。
「……私、どうすればよかったかな?」
ポツリとこぼれた情けない声に、灯ちゃんの手にこめられた力がちょっとだけ強くなる。そんなの灯ちゃんにはどうしようもないことで、私にも本当はどうすれば良かったのかくらい、分かってた。ただ、そうする勇気も覚悟もなかっただけ。
「とりあえず、どっか座ろ?」
どこか、とは言っても私達が学校内で入れる場所なんて、実際のところはかなり限られてる。科学とか音楽みたいな専科の教室は、基本的に授業時間外なら無断の立入禁止だし、無人であっても他のクラスの教室に入るのは、泥棒とか悪戯をしようとしてるんじゃないかって疑われちゃう。悲しいことだけど、どうにもならないから、結局は自分たちの教室に落ち着くことになる。
「……っ」
席に就いて、どんな風に話を切り出そうかと息を吐き出した瞬間、教室の外をものすごい速さで見慣れた影が走っていくのが見えた……八神さんだ。
泣いて、た。
そう気付いて、思わず立ち上がった私の手に、今度はそっと灯ちゃんの手が重ねられた。
「ダメだよ、結ちゃん。いま結ちゃんが行ったら、話が余計にややこしくなるから」
「でも」
いつもは私の背中を押してくれる灯ちゃんは、真剣な顔で首を横に振った。
「まずは、結ちゃん自身が自分のことを何とかしないと。でしょ?」
静かな声が、ゆるゆると私の心を溶かしていく。頷いて、息を吸い込む。深呼吸すると、凍りついていた指先まで、少しだけ血液が行き届くような気がした。
「ありがと、灯ちゃん」
ニコリと笑ってみせる灯ちゃんは、いつでも可愛くて、それでいてカッコいいなあと思う。その笑顔に背中を押されて、私は自分の中のゴチャゴチャした感情を、少しずつ言葉に組み立てていった。
「……やっぱり、覚悟ができてなかったんだと思うの。気付いてたかもしれないけど、昨日とっさにウソついちゃってた。怖かったんだ……本当の私のこと、知られるの」
ポツポツと言葉が紡がれていく時間を、灯ちゃんはイヤな顔ひとつせずに、ずっと私に合わせて待っていてくれた。
「二人とも、絵のプロなのに他のことだって詳しいでしょ?だから、完全にシロウトな私の文章なんて見せて、笑われたりバカにされたり……ううん、二人はそんなことしないよね。失望されるのが、イヤだったの。こんなレベルで、二人と一緒にやろうとしてたんだって」
「それで、クオリティの高いもの出したくて……新しく作ったのが、今日読ませてくれた小説?」
私は小さく頷いて、顔を覆った。恥ずかしくて、死んでしまいたかった。
「八神さんが言ったこと、全部本当なの。元々自分が書いてた無難な小説に、設定とか展開とか文章表現とか、そういう誰かが書いた素敵なものを真似して……」
ダメだ、はっきり、言わなくちゃ。
「盗作、したの」
灯ちゃんも分かっていたのか、気まずそうな表情で視線を逸らした。私は今日、八神さんに私の罪を突きつけられた時よりも、ずっとそのことに心臓が痛くなった。私は私のせいで、誰より大切な友達に、こんな顔させちゃったんだ。
「小説家として……ううん、人として絶対にやっちゃいけないことをした。それなのにね、その罪悪感よりも『みんなに軽蔑された』ってことにばっかり怯えてる私がいるの。おかしいよね、こんなの……」
泣いたら、ダメだ。ここで泣くのは、本当の卑怯者がやることだもの。
「おかしくないよ」
そっと、灯ちゃんが私の目を見て言った。
「おかしくない」
もう一度くり返された言葉に、胸の奥から何かがこみあげてきて、目の前がくもって見えなくなった。
「ごめ、ん……ごめん、なさい」
子供みたいに泣きながら、もう誰に対して、何に対して謝ってるのかも分からなくなってしまいそうで。灯ちゃんは、お母さんみたいに私の背中をポンポンと撫でながら、ゆったりとした口調で自分のことを話してくれた。
「私もね、怖かったよ。歌声はごまかせないからあの場で歌うしかなかったけど、足が震えて竦んで仕方なかった。もしも嘘ついて生の声を綺麗に聞かせる方法があったなら、悪魔にだって魂を売ったかも。でも、あのまま立ち止まってたら、永遠に置いてかれちゃうと思った。その方が怖かったから、向こう見ずに飛び出しただけなの。準備なんて出来てなかった」
「そんな、すっごく上手だったのに……」
私の涙混じりの声に、灯ちゃんは苦々しそうな笑顔を浮かべて首を横に振った。




