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07 洗礼者ヨハネ ⑤

「私だって、つらいわよ、苦しいわよっ!いつだって弱音吐きたくて、でも立場がそれを許してくれない……いいえ、私が私自身に許せないっ。そもそも、究極的には誰かに見てほしくて認めてほしくてたまらないって欲求が根底にあるんだとしても、本当にそれだけのために芸術やってたの?そんな、アンタどころかアンタの作品すら愛してくれないよーな、どうでもいい奴らのために、死ぬ思いして血反吐(ちへど)はきながら、それでも筆握って描き続けてきたの?違うでしょっ?」


 俺は、完全に圧倒されていた。それこそ八神が弱音を吐くだなんて、想像すらしてなかった。神代とあれだけ言葉を交わして、学んだんじゃなかったのか……こいつらは強いんじゃなくて『強くあれ』と自分をギリギリまで追い込んで、苦しくてもたった一人でも立ち続けているだけなんだって。


「少なくとも、アンタがこだわって絵を描きたがらないのも、私達の師匠になるのを拒んでるのも、私達の努力と才能に問題があるからじゃないってことでいいのね?つまり、アンタはどれだけ言葉で取り繕っても、自分で芸術家としての自分を諦めただけなのね?」


 俺は言葉を返すことができなかった……できるはずがなかった。そんな俺に対して八神は本気で失望したかのように、フイと俺から視線を逸らして、自分に言い聞かせるかのように目を伏せた。



「……そうよ、私は天才だわ。そうでも思ってないと、やってらんないわよ。もう、アンタの手助けなんて期待しない。私は私の力で、日本一……ううん、世界のテッペン取ってやるわ。せいぜい、私の師匠として名前を残せなかったこと、後悔しながらここで勝手に朽ちてればっ?」



 叩きつけるようにそう告げると、来た時と同じように足音も荒く八神は去っていった。知らず、詰めていた息を吐き出しながらズルズルと椅子にへたり込む。あんなに好き放題言われたのに、どうしてか怒りも悲しみもそこにはなくて、ヘンな爽快感……みたいなものだけが残っていた。


 こんな風に、何かを誰かに吐き出したことなんて、灯に対してすらなかった。そして、誰かからこんな風に芸術のことに関して、腹の底からの怒りをぶつけられたことも。いつも俺は、芸術が絡むことになると、優しく遠巻きにされて傷付けないようにと、大事に大事にされてきた。



 ふと、何かに()き動かされるようにして引き出しを開ける。適当に書類をツッコんで、そのままにしてあるグチャグチャの底を漁れば、使い古した一本の筆……俺の相棒が変わらない姿のまま眠っていた。


 息を止めて、恐る恐る手を伸ばす。ニスを丁寧に施された白木(しらき)の軸が、ブランクなんて感じさせないような滑らかさで、ピタリと手に吸い付く。先の方に向かって穂先がなだらかな曲線を描く、惚れ惚れするようなフィルバート。



 ドクン、と。心臓が、震えた。



 まだ何を描くべきか……いや、何かを描きたいと渇望する心はまだ欠けていて、見つけられそうにない。それでも。



 夜明けのように、何かの予感が身体の奥で響き続けている。



 *



 指先が、ぽすぽすと柔らかいタオルの上をはねる。


 机みたいに固くて反発してくれない板をずっと叩いてると、指先が痛くなっちゃうから、仮想キーボードの時代になってもキーボード代わりのものは必要だ。本当は膝の上だって立派なキーボードになるんだけど、ちゃんと気合いが入らないって言うのかな……あと、くすぐったがりの私には、あんまり向いてないと思う。


 ふと、手が止まる。いけない、と思った時にはもう遅い……集中、切れちゃった。


 はふう、と息を吐き出してウインドウを閉じる。くるり、と椅子の上でちっちゃくなって膝を抱えると、なんだか力が抜けて眠くなってくる。ちょっと休憩するだけなんだから、眠っちゃダメ、と思いながらフワリとこぼれたアクビを飲み込む。


(なにか、他のこと考えなくちゃ)


 眠気も吹き飛ぶようなこと。とびきり楽しいことがいいな、なんて思ってみるけど、いま思い出せるのはたった一つのことだけ。


「灯ちゃん、だいじょうぶかな……」


 思わずつぶやいた言葉が、思ってたよりもずっと不安な感じで、口にする前よりも心細くなってしまう。たぶん私が心配してるのは、灯ちゃんのことより、灯ちゃんと私はだいじょうぶかな?ってことなんだと思う。


(私のこと、ばっかり)


 みんな、私に『優しいね』とか『癒やし系だね』とか、そんな風に言ってくれるから……だから私もそうなりたいなとは思うけど、本当にそうだなんて絶対に言えないもの。私の知ってる私は、とっても迷惑な種類の嘘つき。


 でも、せめて友達には……少なくとも灯ちゃんにだけは世界一やさしい私でいようって、どんな願いでも叶えてあげたいって、そう思ってたのに。


「私、どうしたらいいのかな」


 灯ちゃんとお揃いな、パンダさんの枕を抱き締める。なんとなくやる気のなさそうな顔が、今日もやっぱり頼りなくて、そのことにどうしてかちょっとだけホッとした。


『ゆいー?そろそろ、ご飯の支度手伝って?』


 一階から聞こえてきたお母さんの大声に、ハッと意識を引き戻される。


「いま行くーっ」


 叫び返しながら、レゾナンスの電源を完全に切る。少し、頭を休ませよう……そう思っているはずなのに、階段を降りながら意識はまた、灯ちゃんと交わした会話に引きずりこまれていく。


 *


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