07 洗礼者ヨハネ ②
「……ごめんなさい、目立つような真似して」
珍しく、しおらしい感じで謝ってきた八神に、俺は「お、おう」と、ちょっとキョドり気味に返事をしておく。そう言えば、こいつは俺とのいざこざで主任と副校長に叱られてたんだっけと思い出す。その時のことが、よっぽど堪えたのかもしれない。
「それで、何があったって言うワケ。ごまかさないで教えて」
「ごまかすも何も……神代の言葉通りだろ。アイツはお前と分かり合いたいって言ってたし、傷付けたくないとも言ってた。だから仲直りしたいと思って謝った。普通の思考回路なんじゃないのか?」
八神は俺の返事を聞いて、呆気に取られたような顔で固まった。本気で言ってるのか、この男は、とでも言わんばかりな感じだ。俺もまあ、その気持ちは分からなくもない……普段の神代を見てたら、そんな殊勝で繊細なことを考えてるだなんて誰が思うだろう。俺だってきっと、あの震えと涙がなければ、今でも神代のことが理解できなかったに違いない……いや、今だって完全に理解できてるわけじゃないんだし。
ただ俺が、少なくとも嘘を吐いてはいないのだと理解してくれたらしい八神は、途方に暮れたような表情で深々と溜め息を吐いた。
「あの、極楽トンボ……」
むしろ良く、そんな言葉知ってるなと変なところで感心させられる。その使い方が正確なのかどうかは、俺には判断つかないんだが。
「神代なら本気でそんなこと考えてそうだって、納得させられるのが尚更腹立たしいわ」
「それは、俺にはどうしようもないことなんだが」
「止めなさいよ!」
噛み付く八神に、俺は耳に指をつっこんで聞こえないフリをした。
「別にいいだろ……この機会に普通に仲良くしてみれば。お前だって、四六時中いがみ合ってたら疲れない?俺は見てるだけで疲れる」
「あのねえ、芸術家が仲良しこよしして、何が生まれるってのよ。別にどうでもいい相手だったら、あんないけ好かないヤツ関わろうとすら思わないわ。ヒトとしては最悪だけど、神代はスゴいヤツなの。だから私は怒ってる」
ずい、と身を乗り出す八神に、俺は思わずのけぞった。こんな密室で至近距離で、かなり客観的に見ればカワイイ女の子と二人きりという、字面だけみれば素敵なシチュエーションではあるんだが、全くもってトキメかない。むしろ、冷や汗が出てイヤな意味でドキドキしてるくらいだ。女子高生怖い。
「アレが妙に大人しくしてると調子狂うの、分かるでしょ?それとも、トモダチもライバルもいなかったから分からないかしら?」
「友人で、同時にライバル『だった奴』ならいる。お前も、知ってるだろ」
俺が硬い声で呟くと、八神はハッとしたような表情を浮かべて、バツの悪そうな顔になってうつむいた。
「……ごめんなさい」
俺は返事をしなかった。出来なかった、と言った方が正しかったかもしれない。黙り込んだ俺に、八神はそれでも追及の手を緩めてはくれなかった。鋭い視線が、俺を暴いていく。あの時、神代が言いたかったことが、少しだけ分かるような気がする……確かにこの瞳は、暴力的なまでに真っすぐな原色だ。
「でも、それなら尚更、アンタの価値観と後悔を押し付けないで。私達の関係に口出ししないで。傷付け合うことの、何が悪いの?これまでだって、それで上手く行ってた。神代の不安なんて、麻疹みたいなものでしょ。センパイ達みたいな『普通の感覚』に触れて、このままでいいのかって悩んでるだけ……喉元過ぎれば何とやらよ」
(……お前は、どれだけ神代が苦しんでいるのかも知らないだろ)
言葉は、喉元まで出かかっている。怒りと悲しみであふれてしまいそうになる記憶に、必死になって蓋をする。それを口にしてしまうことは、神代への裏切りになる。本当は俺にだって知られたくなかったはずの痛みや苦しみを、ましてや八神にだけは知られたくないだろうから。
物言いたげな顔で、それでも口を閉ざし続ける俺に、沸点の低い八神は焦れたように睨みつけてくる。
「なんでアンタは、いつも『そう』なの?普段は他人の目なんか気にしてないみたいに好き勝手言ってるのに、肝心なとこではイヤなことイヤって言わないで、黙りこくって『誰も俺のこと理解してくれない』とかイジケてんの。そんなの、エスパーじゃないんだから言わなきゃ分かんないでしょ」
正論すぎるくらいに、正論だった。それでも、今の俺には正論は重すぎる。
「なんでそんな、芸術の神様に愛されてるみたいな才能があるのに、カンタンに投げ捨てられるわけ?トラウマがあるなら、立ち向かいなさいよ。現にレゾナンスを通してでも、絵は描いてるじゃない。単純に『描きたい』って気持ちがあるから、こんなとこにズルズル居座ってるんじゃないの?じゃあ、描けばいいじゃん!」
「……るさい」
「なに、よ」
腹の底から、怒りとか苦しみとか妬みとか憎しみとか、とにかくドロドロした真っ黒なものが熱されて、マグマよりも性質の悪い何かになって噴き上がる。
「うるっさいんだよっ!神様に愛されてるのは、お前の方だろ!そんな綺麗事、真顔で言えるくらいに綺麗なままで、どうしてあんな絵が描ける?どうして自分の才能を、疑いもなく肯定できる?……勘違いしてるみたいだから、教えてやるよ『あの時』の真実を。俺は画壇から追われたんじゃない。むしろ俺が冤罪だって分かってる人達の方が大半で、俺のことを引き留めようとしてくれた。それでも、描けなかった。いいや、描こうともしなかった……逃げたんだよ、俺はっ」




