06 見返り美人図 ⑨
「俺はさ、お前も薄々気付いてるとは思うけど、本当にどうしようもない人間だよ。偉そうに教師なんて言って、先生なんて呼ばれて、大人の側に立っているけどさ……でも、今でも、いや……年取ってからの方がさ、沢山人を傷付けてる気がする」
俺の言葉に小さく目を見開いた神代に、こんなに表情豊かだったんだなとボンヤリ思う。きっと、俺が気付いていなかっただけで、彼女はこういう小さなサインをずっと発し続けていたのかもしれない。神代のことだけじゃない……俺はきっと、そういう小さくても大事なものを沢山とりこぼして踏みつけにして歩いて来た。その、償いってわけじゃないけど。
「お前は、自分のどこが間違ってるのか、もう自覚してるだろ。そもそも俺は、お前が何一つ間違ってるとは思わないけどな」
「え……」
神代がここまで驚いてる顔なんて、初めて見た。何となく、役得な気分で笑ってしまう。
「前も言っただろ。お前は間違ってないし、それを貫けばいいって。あれは、あの場限りでしか有効じゃない、なんてケチくさい言葉のつもりはないぞ。お前はちゃんと、自分の信念を持ってる……それだけじゃなくて、自分でそれが間違ってるんじゃないかって、疑って反省することができる。それ以上、何が必要なんだ?」
「それ、は……でも、私は実際に八神を傷付けてしまった。さっきの彼女は、取り返しのつかないくらいに濁ってしまって、私がそうしたんです。それは動かせない事実でしょう」
眉を寄せて、難しいことを考えるみたいな顔をする神代に、俺はもっとシンプルに考えろよ……なんて、自分にそのままブーメランで帰ってきそうなことを思った。
「取り返しのつかないことなんて、そうそうあるもんかよ……お前も八神も生きてて、同じ学校に通ってて、それも同じクラスにいて、交わすための言葉があって、現に何を伝えるべきかも理解してる。お前がまだ『関わっていたい』って思うなら、間に合わないことなんて、何一つないだろ」
「それは、そう……なのかもしれません」
そんな単純なことなのに、世界の真理でも発見したみたいな忘我の表情で、神代は思わず納得させられてしまったように呟いた。
「言葉が無理でも、まだ出来ることがあるだろ」
「……分かりません」
これは完全に思考が停止してるなと笑いつつ、俺はきっと後で思い返したら床を転げ回って『いっそ殺してくれ』なんて叫びたくなるはずの、こっ恥ずかしいセリフを吐いた。
「俺達は、なんのために芸術家やってるんだ?」
言っているそばから、俺自身の心臓にぐさりと刺さった。言葉を抜き取れば、血があふれこぼれて、きっと俺は俺でなくなってしまうだろう。
でもそれは、神代にとってもそうだったみたいで、彼女はハッとしたような表情で心臓に手を当てて何かを考え込んでいた。
「まだ、間に合いますか。こんな私でも、誰かと分かり合えますか」
ささやくような、それでも確かに悲鳴みたいに零れた声に、俺はしっかりと頷いた。
「ゆっくりでいい。まだ十分、間に合うから……八神はそんなヤワな奴じゃない。こういう言葉が正しいのか分かんないけど、お前の『ライバル』なんだからさ」
「ライバル、ですか……私は、もったいないくらいのギフトを、既に与えられていたのですね」
泣きそうな表情で、ふわりと微笑んだ神代に、俺はぐっと心臓をつかまれたような気がした。かすれた声が、喉奥から漏れる。俺の方が、泣いてしまいそうだと思った。
「そう、だな」
ああ……俺達は本当に、面倒くさくて分かりにくくて、言葉が足りなくて。だから、それでも世界と繋がっていたくて筆をとって、それすら満足に握れなくて。
それでもこうやって、生きていくしかないんだ。
「世界は美しいはずだって、信じていられるなら……きっとお前は大丈夫だ」
それはきっと、かつての俺が誰かに言って欲しかった言葉。それをどうしてか、神代を通じていま、俺自身が受け取っているような気がしていた。
「お前は綺麗だよ、神代」
その黒曜の瞳から、宝石みたいにきらめく涙がこぼれた。
何かを綺麗だと思う心は、こんなにも暖かいものだったかと。美しい涙をそっと手の平で受け止めて、俺はいつまでもその重さに、何か大切なものを託されたような熱を感じていた。
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