06 見返り美人図 ⑦
ふっ、と。静かに……本当にささやかな変化だったけれど、確かに神代は笑った。短い付き合いだけど、こいつを見てて何度か思ったこと。こういう瞬間が、どうしようもなく綺麗だと、思う。
顔がとか、笑い方が、じゃなくて……もっとこう、汚れのない尊いものを見たような気にさせられる。何ていうか、これをまだ『綺麗だ』って思えるなら、まだ俺も大丈夫みたいなバロメーター的イメージ。教師が生徒に抱く感情としては不適切なのかもしれんが、そんなの俺にとっては今更って感じだ。
(強いな……いや、その表現の方が失礼か)
強くあろうと、してきただけだ。きっと、こいつも……それから、八神も。まっすぐで、眩しい。触れるのをためらうような、純粋さがそこにある。でも、ほんの少し前まで俺にも、神代みたいなところが少しくらいはあったんだろうか。あったはずだ。
「あなただけを目指して、ここまで来ました。あなたの見ている世界を、直接教えて欲しいと思った。方法は違っても、頂点に登りつめれば見える景色は同じだと思ったから、あなたの隣に立つため墨の世界にのめり込みました。むしろ、同じやり方ではここまで来れなかったでしょう。でも、ようやく辿り着いたこの場所に、あなたはもういなかった」
その声はどこまでも優しくて、俺達は何の話をしていたんだっけと思う。そして、やっと気付いた……神代は多分、自分の抱えていた苦しみや悲しみを棚上げにして、俺に何か大切なことを伝えようとしてくれてる。
「先生……月並みすぎて、生涯に何度言われたことかは分かりませんが」
ふ、と黒曜の瞳が俺を覗き込む。ほんの少し顔を傾ければキスのできそうな距離で、あまりにも無防備な表情と心をさらして、神代は俺に言葉をくれた。
「あなたの描く世界が好きです。あなたに、救われました。穂高燿がいなければ、筆をとってくれなければ、私はいまここにいません」
それは、どんな告白よりも俺の胸を震わせた。みっともなく、泣き出してしまいそうな気がした。俺はそんな美しすぎる感情と真っすぐな敬意を向けてもらえるような立派な人間じゃないんだと、何もかも捨ててたつもりで、それでも何も捨てられなくてしがみついた、人生の残りかすみたいなヤツで。
俺の信じていた世界を、いつしか俺自身がいちばん信じられなくなってた。それなのに……それでもお前は好きだと、救われたと、そう言ってくれるんだろうか。
「ずっと、あなたに絵を描いて欲しいと思っていた。あなたがこんな場所にいるのは、世界の損失だとさえ傲慢にも考えていました。でもそれは……単なる私の我儘でしたね」
そう言って、寂しそうに微笑む神代は、たったいま沢山のギフトを俺にくれたはずなのに、何一つ返せるものがないことがどうしようもなく悲しかった。何もない。からっぽだ。
……だって、怖いんだ。あの日の『声』が、ほんの少し気を抜いただけで俺を引きずりこもうとしてくる。俺に、本当の意味で絵を描く資格はない。芸術家を名乗ることも、世界に俺の生きた足跡を残すことも、何もかも俺にはもう許されないと。
筆を持つたびに、手が震える。吐き気がする。パレットナイフで切り裂けもしない喉を、がむしゃらに突き立てたいような衝動に駆られる。入学式の日、俺の受け持つ生徒達を前に語ったことに、何一つ嘘はない。そのことを、きっと神代も理解したんだろう。
それでも、神代の表情に絶望や落胆はどこにもなかった。代わりに彼女は、強い光を瞳に宿して俺を見上げた。
「芸術家に、なります」
とうの昔に、お前はそうだろと、そんな軽口を許さないような真剣さがそこにはあった。
「これまで、自分でも気付かないうちに、少しずつ色々なものを拾い上げながらここまで来ました……だから、幼かった頃のようにたった一つのものにだけ、何もかも捧げて描くことは難しいかもしれない。でも今は、誰よりあなたのために描きたいと思います。それを先生が望んでいないとしても。少しでも、私がもらった世界の美しさを返したいから、そういう芸術家になります」
そこまで一息に告げると、ふと息を吐いて神代の雰囲気が和らいだ。俺も気付かないうちに詰めていた息を、ゆるゆると吐き出して、途端にとほうもないような感慨が押し寄せてくるのを感じた。いや……今この瞬間、俺は本当に大切すぎるものを受け取ってしまったんだ。
本音を言えば、こんなに重くて美しすぎるもの、今すぐ丁重にお返し申し上げたい気持ちでいっぱいだ。迷惑とか、そういうんじゃなくて、とにかく申し訳ない気分にさせられるから。でもきっと、受け取らない方がよほど、神代に対する侮辱になる。それが分かっていたからこそ、俺は何も言うことができなくて。
「神代……」
とにかく何かを伝えたくて、口を開いても渦巻く感情を上手く言葉にのせることができない。神代は、それすら分かっているかのように首を横に振った。この感情が、少しでも彼女に伝わっていればいい……俺には俺自身の色が見えるほど共感覚が強くないけど、彼女の目に映る俺の感情が、少しでも優しい色をしていればいいと、そう思った。




