06 見返り美人図 ②
「八神、お前もだ。遠慮することが失礼だって言う意見には同意するが、伝え方があるって言う神代の言葉は正しい」
「っ、どうせ、私は伝え方が下手クソよ……言葉が足りないから、筆をとったのに、それすら満足に使えない」
俺は一瞬、八神が何を言ったのか分からなかった。いつも自信に満ちあふれて、自分が世界一の芸術家なんだと、そう疑いなく信じているようなヤツだと思っていた。もしかしたら八神も、俺のような凡人と同じように悩みや苦しみを抱えているんだとしたら?
「おい、俺はお前の絵のことについては一言も」
「でも、思ってるんでしょうっ?私に才能を伸ばすだけの価値がないから……私の作品が、あなたの、先生の心を揺さぶることができなかったから、先生は私を弟子にとってくれないんでしょ?神代だって、言ったじゃない……所詮、私の絵は輝かしい巨匠達の下手クソな模写でしかないんだって!分かってるわよ、そんなことっ!」
その大きな瞳から、涙がこぼれた。言っていることは支離滅裂なのに、どうしてか八神が何に対して怒りを抱いているのかがよく分かった。まるで、自分のことみたいに……だってそれは、世界とか俺とか神代に対してじゃない。自分自身に対する怒りとやるせなさで、そんなもの、こいつが持ってるだなんて想像もしてなかったのに。
八神は鞄を引っつかむと、ちょうど数日前の灯みたいに美術室から出ていこうとした。
「っ、おい、八神」
先日の二の舞だけは避けたいと、慌てて肩をつかんで引き止める。
「っ……」
息が、止まった。
触れた指先から、伝わる震えに。普段は感じない、その小ささと柔らかさと脆さに、どんな言葉で引き止めようとしていたのかさえ忘れて立ち尽くした。
「……先生なら分かるでしょ。ううん、分からないかもね。ただの、芸術家になりきれない人間の弱音だから。明日になったら、また元通りだから……だから、放っておいて、できれば忘れて。一人に、して」
するり、と俺の手をすり抜けて走っていった八神の後ろ姿は、本当にどこにでもいる高校生だった。俺はこの期に及んでまだ、彼女のことを得体の知れない怪物だとでも思い込んでいたのかもしれなかった。
「追いかけなくて、良いのですか」
淡々とした神代の声に、どうしてお前はそうなんだと、どうしていつもそんなに落ち着いていられるんだと、神代が悪くないのは分かっていても詰め寄りたい衝動に駆られた。それなのに、振り上げた拳の行き場を失ったみたいに、俺の感情も宙ぶらりんになってしまう。
神代と共に過ごした時間は、そんなに長くない。それでも、ここ数日密に顔を突き合わせていたからだろうか、なんとなく……本当になんとなくだけど、神代が必死に爆発しそうな感情を抑え込んでるみたいな、そんな感じがして。
言葉を忘れてしまった俺を、どこか焦れったそうに見上げた神代は、またフイと視線を逸らして呟いた。
「先生は、私に同調するべきではありませんでした。あの場は、例え八神が間違っていても、先に彼女を宥めるべきでした。まあ、追い詰めたのは私ですが……なぜ、追いかけないのですか。いま先生がいるべきは、ここではないでしょう」
いかないで、と。そんな声が聞こえた。
幻聴だ。目の前の神代は相変わらず、怖いくらいの無表情で、どこか怒ってるようにすら見える。それなのに、俺にはどこか彼女が今にも泣き出してしまいそうな気がして。
「いや……灯はともかく、八神の行きそうな場所なんて分からんし、校外まで追いかけていく訳にもいかないからな。それより神代、俺にはお前の方が放っといたらヤバそうに見えるよ。何て言うか、ふらっと消えそうだし」
「……仰る意味が、分かりません」
俺が目を覗き込むと、動揺したように瞳が揺れる。こいつって、こんなに分かりやすかったっけ。もし、今まで俺が見た通りの『いつも無表情で冷静沈着な神代梓』が作られたキャラクターなのだとしたら、どうしてこいつはそんな生きにくそうな人生を、自ら望んで歩いているんだろうと思う。
「お前、苦しいの?」
そんな身も蓋もない、ただ思っただけの言葉を口にしただけで、呆気なく神代梓は陥落した。黒曜の瞳が、泣きそうなくらいに揺らいでいる。彼女が口元を押さえて、必死に言葉や想いがあふれないようにしている姿を見て、俺は自分がびっくりするくらい落ち着いているのを感じていた。どこかで、分かっていたのかもしれない。出会った時から、神代は俺に似ていると思っていたから。
「私は……どうしてこんなにも、愚かで幼いのでしょう」
「自分がそうだって分かってる子供なんて、なかなかいないと思うぞ……まあ、座れよ」
お上品に清楚な白いハンカチを出して、目元を押さえた神代の隣に腰掛ける。最近は上手く回り始めたと思っていたけど、そうそう上手くはいかねえもんだなと、息を吐き出してこれまでとこれからのことを考えた。
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